塚原好男(つかはら・よしお)さん│71歳│長野県麻績村 濃厚な味わいのりんご「ふじ」を育てるため、余分な果実を摘み取る作業に精を出す塚原さん 取材/多田茂樹 写真/堀 隆弘

塚原好男(つかはら・よしお)さん│71歳│長野県麻績村
濃厚な味わいのりんご「ふじ」を育てるため、余分な果実を摘み取る作業に精を出す塚原さん
取材/多田茂樹 写真/堀 隆弘

周囲の名峰を眺めながら心癒やされる日々を送る

inoti115_rupo2_2 長野県東筑摩郡麻績(おみ)村は、長野県の主要都市、長野市と松本市の中間に位置する、人口2,600人あまりの高原の村。その多くは山林原野で占められ、四季折々、美しい自然の移り変わりが見られるだけでなく、聖高原、聖山、聖湖、聖高原スキー場などの観光地としても知られている。

 3人の子どものうち長男、二女は独立し、21年前に妻の薫子(しげこ)さんを亡くした塚原好男さんは、長女とこの地に住み、農業を営んでいる。塚原さんは、麻績村の魅力についてこう語る。

「寒暖の差が激しく、夏は爽やかで過ごしやすい半面、冬は雪が深い上、マイナス10度になる日も珍しくない厳しい気候ですが、ここから眺める景色は最高ですよ。北西に聳える聖山の北側には、後立山連峰に連なる蓮華岳、常念岳、東には姥捨山が望まれ、何年経っても、見飽きることがありません。自然に包まれた暮らしをしていると、いつも心が癒やされるのを感じます」

 南に開けた斜面に建つ塚原さん宅の縁側からは、居ながらにして、中央アルプスの名峰、木曽駒ヶ岳を始め、八ヶ岳、南アルプスの山々も見渡せる。

 こうした豊かな自然の中で、塚原さんは、自宅から歩いて10分ほどの所にある畑で、りんごを栽培しているほか、米と野菜も作っている。

 そんな塚原さんは、300年前から代々農業を続けてきた塚原家の10代目当主。その古い歴史を伝えるかのように、家の入口には、今から132年前の明治20年、8代目が造ったという屋根付きの古びた門が、しっかりと残っていた。

「麻績村の小作農家に、長男として生まれた私は、昭和48年、24歳の時に、塚原家の二女である妻と結婚し、この家の婿養子になりました。昔は大地主だったらしく、立派な塀と土蔵がある大きな家だったそうですが、今は辛うじて土蔵が残るくらいです」

手間暇をかけた分りんごはそれに応えてくれる

 塚原さんは、高校卒業後、国鉄(現JR東日本)に勤務した。60歳で定年を迎えた後、高速道路の料金所で働く傍ら農業に携わるようになり、70歳で退職したのを機に農業専従となった。

秋になると、りんご畑には、赤く色づいたふじの甘い香りが漂う(写真提供:野沢貴広・生長の家長野教区教化部長)

秋になると、りんご畑には、赤く色づいたふじの甘い香りが漂う(写真提供:野沢貴広・生長の家長野教区教化部長)

「りんご畑は、昭和15年頃、蚕用の桑畑をリンゴ畑に変えた先代から引き継いでいます。標高が700から800メートルほどのこの地は、りんご栽培の最適地で、りんごの王様と言われる『ふじ』を主に育てています。今、食べてもらえないのが残念ですが、色づきがよく、果肉がしまった濃厚な味わいのふじができるので、皆さんに喜ばれています」

 取材で訪れた7月上旬は、よい果実を得、枝を保護するために、余分な果実を摘み取る摘果作業を行う時期だった。りんご畑に同行し、その様子を見せてもらった。

 20アールほどある畑には、約30本のりんごの木があり、その一本一本を手作業で摘果する。さぞ時間がかかるだろうと思いながら、その様子を見守ると、剪定鋏を持った塚原さんは、驚くほどのスピードで作業を進め、あっという間に何本かの摘果を済ませた。

「果実の栽培には、本当に手間暇かかるんですが、手間暇をかけた分だけ良いりんごができるわけで、ちゃんと人間の熱意に応えてくれるものなんです。それは米も野菜も同じですね」

 収穫したりんごは、農協に出荷している他、自分でも販売している。

米作りを通して生き物と共生する大切さを学ぶ

 りんご畑に行く途中にある、20アールほどの棚田に行くと、一面、整然と植えられた稲の苗が、夏の風を受けて青々となびいていた。無農薬で米を作っているというだけあって、棚田に張られた水の中を見ると、ゆったりとオタマジャクシが泳いでいる。 

「この地域は、春から秋にかけて、梅雨の時期以外は、あまり雨が降らないので、田んぼに一旦水を張ったら、稲を刈るときまでそのままにしておき、虫干しはしません。そのため、オタマジャクシは、カエルになるまで田んぼの中で成長します。米作りを通して、さまざまな生き物と共生して生きることの大切さを学ばせてもらっています」

 また、自宅前にある約7アールの畑では、米と同様、無農薬で野菜を栽培している。見せてもらうと、ネギ、ナス、キャベツ、ジャガイモ、キュウリ、カブ、二十日大根などが見事に育っていた。

「米も野菜も、自分で食べるために作っているものですが、家だけではとても食べきれず、子どもたちに送ったり、長野県教化部(*1)で行われる練成会(*2)などの生長の家の行事に持って行って食べてもらっています。自分が作った米や野菜を通して、人との繋がりができるのは、嬉しいことですね」

妻の突然の死を信仰で乗り越えて

 塚原さんは、相愛会(*3)の相愛会長(*4)、白鳩会(*5)の支部長(*6)を務めた父親と母親から、子どもの頃、「人間・神の子」の教えを伝えられた。共感を覚えたものの、両親のように熱心に信仰することはなく、薫子さんと結婚して3人の子どもを授かってからも、子どもたちを生長の家の集まりに連れて行ってくれたのは、両親と生長の家信徒だった薫子さんだったという。

 転機が訪れたのは、平成2年、41歳の時、父親の後を継いで相愛会長になったことからだった。

「それまでの私は、一番が仕事、二番が農業、三番が趣味という自分中心の生活をしていました。それが相愛会長として、曲がりなりにも人のために尽くすことによって、父と母が信仰してきた、『人間は完全円満な神の子である』という生長の家の教えの素晴らしさを実感するようになったんです」

さわやかな高原の風に吹かれながら畑の手入れをする。無農薬でいろんな野菜を育てている

さわやかな高原の風に吹かれながら畑の手入れをする。無農薬でいろんな野菜を育てている

 それから8年後の平成10年、50歳の時、当時、50歳だった薫子さんが、急性心不全で亡くなった。夫婦共に地方講師(*7)として、生長の家の活動に励もうとしていた矢先で、しばらくはただ呆然となった。

「3人の子どもたちは、当時まだ学校に通っていましたから、妻はどれほど無念だったろうかと思うと、悲しみに暮れて、なかなか立ち直れませんでした。それでも信仰を支えに、聖経(*8)を読み、供養を続けるうちに、『人間は死なない永遠のいのちを、神様からいただいている』という教えが心に染みわたって元気を取り戻し、子どもたちを育てあげることができました」

 塚原さんは、21年経った今も、毎朝、薫子さんの位牌を祀る仏壇の前で神想観(*9)を実修し、聖経を読誦して供養に努めている。

「ありがたいなあと思うのは、自然に包まれた暮らしの中で、汗を流しながら、りんご、米や野菜を作っていると、『人間は自然の一部である』という生長の家の教えが、理屈抜きに肌で感じられることです。相愛会教区連合会長として、皆さんに話をする際にも実感をもってお伝えできるので、訴える力も強いんじゃないかと自負しています。農作業は大好きなので、死ぬまでりんごや米、野菜を作り続けたいですね。きっと妻も霊界で喜んでくれると思います」

 ふと遠くを見るような目をし、塚原さんは、農作業で日に焼けた顔をほころばせた。

*1=生長の家の布教・伝道の拠点
*2=合宿形式で生長の家の教えを学び、実践する集い
*3=生長の家の男性の組織
*4=生長の家相愛会の末端組織の長
*5=生長の家の女性の組織
*6=生長の家白鳩会の末端組織の長
*7=生長の家の教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*8=生長の家のお経の総称
*9=生長の家独得の座禅的瞑想法