私は長崎の五島列島で生まれ、両親から生長の家を伝えられました。父は結核で入院した時に『生命の實相』(生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻)を読んで、「人間・神の子、病本来なし」の教えに触れて結核が癒やされ、この教えを信仰するようになったそうです。

 私は小学生の頃から青少年練成会(*1)に姉たちと参加し、「両親への感謝の大切さ」や「コトバの力」について学びました。しかし、当時の私は父に対して反感を抱いていたのです。普段はもの静かな父でしたが、お酒を飲むと生長の家の教えをしつこいほど話し、それが嫌でよく口答えをしていました。

イラスト/せのおりか

イラスト/せのおりか

 その後、私は大学受験に失敗し、進路を迷っていた時に、父から広島県府中市にある養心女子大学寮(*2)に入ったらどうかと言われ、勧められるままに入学することになりました。入学式では主事の先生が、「ここにいる皆さんは、いろんな理由で式に臨んでいると思いますが、最終的に入学することを決めたのは自分自身です。真剣に学んでいきましょう」と挨拶を述べられ、私も真剣に学んでいこうと決意を新たにしたことを覚えています。

 卒業後は、生長の家本部(*3)内にあった生長の家政治連合(*4)に勤め、そこで夫となる人と出会い、昭和56年に結婚しました。長女が生まれると、主人の故郷である青森に行き、主人は八戸工業高校に勤務が決まり、私たちは八戸市で暮らしはじめました。すぐに地元の白鳩会(*5)の支部長さんが訪ねて来て下さって、誌友会(*6)に参加するようになり、見知らぬ土地でしたが、同じ教えを学ぶ仲間がいたので、不安はありませんでした。

 次女を出産した時のこと、主人の母と、実家の両親が交代で産後の手伝いに来てくれることになりました。私は、主人への気兼ねもあり、「なぜ、お父さんも来たの?」と母に聞いてしまいました。「何日も一人にしておけないでしょう」と母は言いましたが、親に対して何ということを言ってしまったのかと後悔しました。

 次女は生後、昼間はあまり便が出ず、夜になると何回も便が出る状態が続きました。おかしいなと思いながらも、そのままにしていました。一カ月健診の日、お腹が膨れた次女は巨大結腸症の疑いで即入院となりました。

 その日の夜、主人から「これから一緒に聖経(*7)読誦(どくじゅ)をしよう」と言われ、母も一緒に誦げてくれました。聖経を誦げていると、次女に対して申し訳ない気持ちが込み上げ、涙があふれてきました。退院後、岩手医大病院で精密検査を受けると、担当医から「最悪の場合、人工肛門になるかもしれません」と言われ、ショックを受けました。

 しかし、心を込めて聖経を誦げ、「ありがとうございます、ありがとうございます」と感謝誦行(しょうぎょう)を続けているうちに、私の中に大丈夫という気持ちが湧き上がってきました。私は両親と主人に気兼ねして、言いたいことを自分の中に押し込んでいました。そんな私のわだかまりが、次女の便が出にくくなり、お腹が膨れるという形となって現れたのだと思ったのです。これからは両親や主人への感謝を深めようと決意しました。主人も出すものを出していなかったと反省し、生長の家の月刊誌の配布等の愛行(*8)をはじめました。

 すると次女の便通は次第に順調になり、改めて聖経読誦のすばらしさを実感しました。

●小田川多加代(おだがわ・たかよ)(生長の家地方講師)
生長の家白鳩会青森教区連合会長。子ども4人。3人は家庭を持ち、長男も独立。現在は夫と2人で暮し、休日は夫婦で家庭菜園を行い、収穫を楽しみにしている。

*1 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*2 現在は休校
*3 現在は山梨県北杜市に移転
*4 生長の家の政治団体。昭和58年に活動を停止した
*5 生長の家の女性の組織
*6 教えを学ぶつどい
*7 生長の家のお経の総称
*8 生長の家の月刊誌配布など、愛の行い