A いいえ。国家権力を強くする「外見的立憲主義」の憲法の系統もあり、人権保障と権力分立が不十分でした。

hidokei99_kenpou

 前回述べたように、19〜20世紀にかけて、世界の憲法の多くは近代立憲主義の憲法から現代立憲主義の憲法へと発展しました。しかし、異なる憲法の系統(けいとう)も存在しました。その一つが、「外見的立憲主義」の憲法です(*1)。「外見的立憲主義」の憲法とは、人権保障と権力分立を形式的に備えつつも、君主制を維持する目的のために、国家権力(君主の権力)を強くする内容を備えた憲法のことです(*2)。個人を尊重(そんちょう)するために国家権力を縛(しば)る近代立憲主義の憲法とは、その性質が根本的に異なっていました(*3)。そのため、外見的立憲主義の憲法では、権力分立と人権保障が不十分でした。

 たとえば、外見的立憲主義の憲法の一例である19世紀ドイツのプロイセン憲法では、国王の権力の源泉(げんせん)は“神の恩寵(おんちょう)”にあるとされました。そして、立法権は国王と衆議院と貴族院が共同して行うものとされ、国王には法律案の拒否権が認められていました。また、国王は行政権と大臣の任免(にんめん)権を持ち、権力の分立が不十分だったのです。

 また、国民には法律が認めた範囲の権利と自由しか認められず、人間が生まれながらに持つとされる自然権に基づく権利は認められませんでした。つまり、プロイセン憲法には、近代国家の原点である“理性を持った尊厳(そんげん)ある個人”の理念は十分に反映されず(*4)、人権保障が不十分だったのです。

 なぜ当時のドイツの憲法は、アメリカやフランスのような個人を尊重する憲法にならなかったのでしょうか? それは、ドイツでは、独立運動や市民革命のような“下からの近代化”は行われず、立憲主義を主導したのは市民ではなく統治者(とうちしゃ)で、国の都合を優先させた“上からの近代化”の道具として憲法がつくられたからです(*5)。

 そして、日本の場合も、ドイツと同じように、“上からの近代化”のために国家を統一し、国民を統合する道具として、国の都合を優先させた統治者主導によって明治憲法がつくられることになったのです(*6)。


*1 辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』13ページ、岩波新書刊
*2 真鶴俊喜著「憲法の概念─立憲主義と最近の憲法改正論」(『藤女子大学紀要』第一部 86〜87ページ)、https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180210154003.pdf?id=ART0008109578
*3 辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』15ページ、岩波新書刊