植松昭彦(うえまつ・あきひこ)さん│60歳│三重県津市 「朝、先祖供養をすることで心が晴れ、とても良い気持ちで一日を送ることができます」と語る植松さん。奈良県生駒市郊外にある自宅近くの公園で 取材/多田茂樹 写真/近藤陽介

植松昭彦(うえまつ・あきひこ)さん│60歳│三重県津市
「朝、先祖供養をすることで心が晴れ、とても良い気持ちで一日を送ることができます」と語る植松さん。奈良県生駒市郊外にある自宅近くの公園で
取材/多田茂樹 写真/近藤陽介

毎朝、三重と奈良で夫婦それぞれが先祖供養

 植松昭彦さんの自宅は奈良県生駒(いこま)市にあるが、2年前、生長の家三重県教化部(*1)の職員となって単身赴任し、現在は津市のマンションで独(ひと)り暮らしをしている。 

 そんな昭彦さんの一日は、先祖供養から始まる。朝起きると、神想観(*2)を実修して心を浄(きよ)めた後、先祖供養をするのが日課となっている。

先祖への感謝の思いを込め、仏壇の前で、聖経『甘露の法雨』を読む

先祖への感謝の思いを込め、仏壇の前で、聖経『甘露の法雨』を読む

 その仕方は、実に丁寧(ていねい)で行き届いている。植松家の養子に入っている昭彦さんは、植松家の祖父・政一(まさいち)さん、祖母・ヨシカさん、そして、自分の実家である大久保家の祖父・彦太夫(ひこだゆう)さん、祖母・ゆきゑさん、そして、昨年(2017)4月に亡くなった実父・為吉(ためきち)さんの名前、さらに植松、大久保両家先祖代々之(の)霊位と霊牌(れいはい)(*3)に書き、それぞれ読み上げた後、感謝の思いを込めて、聖経『甘露の法雨』(*4)を読誦(どくじゅ)する。これをほぼ毎日続けている。

「約25年以上、先祖供養をしていますが、ご先祖様の名前を読み上げて供養すると、写真で見た一人一人のご先祖様の姿が浮かんで身近な存在として感じられ、『ご先祖様があってこそ、今、自分がこうして生きているんだ』と実感します。そして何より、先祖供養をすることで、塵芥(ちりあくた)が払われて、心がすっきりし、清々(すがすが)しい気持ちで一日をスタートすることができるので、本当にありがたいです」

 留守を預(あずか)る妻の由実さんも、生駒市の自宅で先祖供養をしているというから、離れていても夫婦の心は一つということがよく分かる。

日々の先祖供養の賜物大久保家から植松家の養子に

 昭彦さんが植松家の養子になったというのも、ほかならぬ先祖供養の賜物(たまもの)だった。

 昭彦さんは、平成4年に由実さんと結婚し、新居で生活を始めたが、やがて二男一女に恵まれ、家が手狭(てぜま)になった。新しい家を探したものの、手頃(てごろ)な物件が見つからなかったため、義父の植松隆(たかし)さん(90歳)、義母の房子(ふさこ)さん(88歳)が二人で暮らしている家で同居するようになった。

「植松家には、妻の兄が一人いたんですが、病弱で家を継げないという事情がありました。それで義父母から、『養子になって、植松家を継いでくれないか』と頼まれたため、平成13年、妻と3人の子供全員で、大久保家から植松家の養子に入ったんです。私は4人きょうだいの次男坊でしたし、日々の先祖供養を通して、家系を受け継いでいくことの大切さを感じていましたから、抵抗なく受け入れることができました」

ノイローゼ状態になり、自殺しようとまで追い込まれて

 昭彦さんが、先祖供養の大切さに目覚めたのは昭和57年、25歳の時、生長の家宇治別格本山(*5)の練成会(*6)に参加したことからだった。

 その頃、岐阜の工業高校を卒業し、中部電力で働いていた昭彦さんは、「もっと土木技術を学びたい」と思うようになって、仕事の後、夜、短期大学で勉強するという二重生活を送っていた。しかし、大学の授業に出るためには、どうしても早く仕事を切りあげなければならず、そのしわ寄せが同僚に及んだ。そこから人間関係がぎくしゃくするようになり、それが重なって、ノイローゼ状態になってしまった。

「日を追う毎(ごと)に症状がひどくなり、勉強どころか、仕事にも身が入らなくなって、ついに休職に追い込まれてしまったんです」 

 生きていくのも嫌になって、「自殺しよう」と思い詰め、その年の6月、以前、友人と旅行した福井県の海岸に出向いた。初夏の夕暮れ、波が打ち寄せる砂浜に座り込み、殺虫剤を混ぜた清涼飲料水を一気に飲んだ。しかし、その瞬間、気分が悪くなって吐き出してしまったため、未遂(みすい)に終わった。

「なんでこんなことをしてしまったんだろうという後悔と、自分への情けなさから、ますます落ち込んでしまいました」

 重い心をひきずり、心療内科に通ったが、少しも改善する気配がない。途方に暮れていた時、見かねた親戚(しんせき)から、「病院で治らなくても、病が癒(い)える生長の家の練成会というものがあるから参加してみたら」と勧められた。「なんとかして立ち直りたい」という思いで昭彦さんは、自殺未遂から1カ月経(た)った7月、生長の家宇治別格本山で開かれた10日間の一般練成会に参加した。

流産児の供養を通して先祖供養の大切さを知る

 最初は、何をする気力も起こらず、部屋で寝てばかりいた。だが、7日目、ようやく講話を聴いてみようという気になり、会場に顔を出した。すると、参加者が、温かく拍手して迎えてくれた。

「『ああ、なんていい人たちなんだろう』と、涙が出るくらい感動しました。それで、自殺未遂を起こすに至るまでの、苦しい胸の内を皆さんの前で話したんです。私の話を親身になって聞いてくれる皆さんの姿を見て、講話を聞くうちに『自分は決して一人ぼっちじゃない。神のいのちをいただいた神の子同士なんだ』と、生きる希望が湧(わ)きました」

自宅の前で、妻の由実さん、養父の隆さんと。隆さんも熱心な生長の家の信仰者だ

自宅の前で、妻の由実さん、養父の隆さんと。隆さんも熱心な生長の家の信仰者だ

 それを機に、毎月、宇治の練成会に参加するようになり、その後、研修生となって、厨房(ちゅうぼう)などで働きながら真理を学んだ。その後地元の岐阜に帰って、入会した青年会(*7)のメンバーは皆素晴らしく、神社での早朝神想観、月刊誌の愛行(*8)、青年誌友会(*9)などの活動に参加した。

 それでもたまに落ち込むことがあり、そんな時、知人から紹介されたのが、奈良県で栄える会(*10)の活動を熱心に行っている松井八重子(やえこ)・地方講師(*11)だった。

「松井講師に相談していくうちに、母には5人の流産児がいることが分かって、供養するよう勧められ、流産児(りゅうざんじ)に名前を付けて霊牌に書き、100日間、毎日時間を決めて供養を続けたんです。すると、驚くほど心が軽くなり、とても元気になりました。その他にも、こうした流産児供養を通して、先祖供養の大切さを知ることもできました」

ご先祖様に通じる報恩感謝の真心

 青年会で活動するようになった昭彦さんは、「長期休職していた会社にはこれ以上、迷惑をかけられない」と26歳になった時、退職し、続いて大学も辞めた。心機一転、父親を頼って、不定期ではあったが、山の管理などの仕事をするようになった。

休日の春の日、生駒市の自宅に戻って、由実さんと散歩を楽しむ

休日の春の日、生駒市の自宅に戻って、由実さんと散歩を楽しむ

 そして平成4年、35歳の時に松井講師の勧めで、生長の家を信仰する由実さんと結婚。それから二人揃って、先祖供養に励むようになった。その後、重機のメンテナンス会社などの仕事を経(へ)て、平成16年、「生長の家のお役に立ちたい」と奈良県教化部に転職し、相愛会(*12)事務局長となった。

「先祖供養のため、霊牌に名前を書くということは、霊界への通信になり、ご先祖様にハガキを書くようなものだと言われます。その意味でも、単なる言葉だけではなく、『私たちを生かし、導いてくださってありがとうございます』という、報恩感謝の気持ちを込めて書くことが大切なんですね。その真心は、きっとご先祖様に通じると思います」

 月に何度か、奈良県の自宅に帰った時など、成人した3人の子供たちを墓参(はかまい)りに誘ったりすることがあるという昭彦さんだが、「素直についてくる時と、そうでない時がありますね」と苦笑いをする。

「しかし、私や家内が熱心に先祖供養をする姿を間近で見ていますから、いずれ、その大切さを分かってくれると信じています。私たちのいのちは、神様、ご先祖様からいただいた掛け替えのない、尊(とうと)いものなんだということを、それとなく子供たち、そして、これから生まれてくる孫にも伝えていきたいですね」

 昭彦さんの目は、「それこそが、子孫に残すべき大切な贈り物」と語っているようだった。

*1=生長の家の布教・伝道の拠点
*2=生長の家独得の座禅的瞑想法 
*3=生長の家で先祖供養や流産児供養の時に使う紙製の札
*4=生長の家のお経のひとつ
*5=京都府宇治市にある生長の家の施設
*6=合宿形式で生長の家の教えを学び、実践するつどい
*7=12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織 
*8=普及誌を配るなどの愛の行い
*9=生長の家の教えを学ぶ小集会
*10=生長の家の産業人の集まり
*11=生長の家の教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*12=生長の家の男性の組織