阿弥陀如来(あみだにょらい)、薬師如来(やくしにょらい)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)……。信仰の対象として崇められ、人の心を癒し、魅了してきた仏像。その仏像を彫る人は何を思い、何を伝えんがために仏を彫り出すのか──その“心の軌跡”を紹介していきたい。

2体とも1988年、25歳の時に習作として制作した「救世観音(ぐぜかんのん)」 

2体とも1988年、25歳の時に習作として制作した「救世観音(ぐぜかんのん)」

松村智麿(まつむら・ともまろ) 1963年、大阪府生まれ。大阪府の摂南大学卒業。19歳の時に、京仏師、松久朋琳氏の講演会を聴いたのがきっかけで、仏像彫刻の道へ。以来35年、仏像彫刻に精進し、仏教美術展などに作品を出品してきた。生長の家相愛会兵庫教区連合会事務局長。生長の家地方講師。

松村智麿(まつむら・ともまろ)
1963年、大阪府生まれ。大阪府の摂南大学卒業。19歳の時に、京仏師、松久朋琳氏の講演会を聴いたのがきっかけで、仏像彫刻の道へ。以来35年、仏像彫刻に精進し、仏教美術展などに作品を出品してきた。生長の家相愛会兵庫教区連合会事務局長。生長の家地方講師。

 前回紹介した「花菱(はなびし)地紋彫り」の次に彫るのが、「仏足(ぶっそく)」である。

 まず、観音様の足首から先の部分を彫るのだが、人間の足と違って「土踏まず」がなく、ふくよかなのが特徴で、これを5本の指に分け、爪(つめ)を彫っていく。

 爪以外は、比較的簡単な形ではあるものの、彫り上がった「仏足」から、学ぶべきことが多くある。「土踏まず」がないのは、大地にしっかりと足の裏が密着しているということであり、仏法を知ると、現象に振り廻されることなく、地に足が付いた動きができるということが表現されている。

「仏足」を彫る際、幅や輪郭(りんかく)を取るために、指腹で固定する技法がある。彫刻刀以外に、人間の指を使い、さらに大きい仏像になると、片足を使って像を挟(はさ)み、彫刻する。

 まさしく、全身を使って彫り上げるのが仏像であり、指を使うやり方は、その初歩であると言っていい。

 目に見えない仏性(ぶっしょう)を仏像として形に現すためには、人間が道具を使い、仲介役を果たさなければなしえない。それだから、仏像を彫ることによって、「人間と仏が一体である」ことが、多少なりとも分かるのでないかという気がする。

上/下:人間の赤ちゃんの手足を見本にしているといわれる「仏足」

上/下:人間の赤ちゃんの手足を見本にしているといわれる「仏足」

「仏足」、そして「仏手(ぶって)」の手本は、人間の赤ちゃんの手足にあると言われている。確かに赤ちゃんの足は、大人の足と違って、「土踏まず」の形も少しはあるが、扁平足(へんぺいそく)ぎみで全体に丸みを帯び、ふくよかさを有している。これは、腫(は)れているというのではなく、「徳」を持っていることを現している。

「赤ちゃんは、福田(ふくでん)を両脇にかかえて生まれてくる」と聞く。観音像の場合、両脇に福田をかかえているわけではないが、「足に福田が現れている」と言われる。

 これは私の想像だが、母親のお腹に十月十日間宿って、仏子として仏様と戯(たわむ)れ、この世に生まれてくる。ゆえに仏像の手足に似て、「福田」をもって生まれ、さらに徳を積んで、人間として成長していくのではないかと思うのである。