イラスト/ろぎふじえ

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 これまで、日本国憲法は日本人の意思と無関係に制定されたのではなく、その成立過程において日本人の意思が反映されていることを紹介してきました。では、そのようにして成立した日本国憲法に対する日本国民の反応はどのようなものだったのでしょうか?

 1946年(昭和21年)4月17日、日本国憲法の元となった「憲法改正草案」が公表された直後、毎日新聞がその内容についてアンケートを行いました。その結果によると、象徴天皇制に賛成する者は85%、戦争放棄に賛成する者は70%でした。つまり、日本国民は、象徴天皇制と平和主義という新しい憲法の原理を歓迎したのでした(*1)。

 日本国憲法を歓迎したのは国民ばかりではありません。政界も同様でした。日本国憲法が公布された11月3日、芦田均厚生大臣は、「今日は生まれてから始めての最も感激した日だ」と日記に記しています。また、「自由党は『自由と人格を尊重する』『民主政治の本流』として、進歩党は『天皇を尊崇する親愛するの実を挙げ得た』として、そして社会党は戦争を放棄し、国際平和を樹立しようとしているとして、新憲法を歓迎した」のでした(*2)。

 一方、日本の統治に関する最高政策決定機関として、GHQより上位に位置づけられていた極東委員会では、新憲法が本当に日本人の自由な意思に基づいているかどうかを確認するため、日本国民に対して憲法を再検討する機会を与えるべきだという意見が支配的でした(*3)。そして、10月17日に同委員会が決定した「日本の新憲法の再検討に関する規定」には、次のように記されました。

 日本国民が、新憲法の施行の後、その運用の経験にてらして、それを再検討する機会をもつために、(中略)本委員会は、政策事項として、憲法施行後1年以上2年以内に、新憲法に関する事態が国会によつて再審査されねばならないことを決定する。(中略)極東委員会は、日本国憲法が日本国民の自由な意思を表明するものであるかどうかを決定するにあたつて、国民投票、または憲法に関する日本人の意見を確かめるための他の適当な手続をとることを要求できる(*4)。

 1年以降2年以内に国民投票等を行うように求める決定は、翌47年1月3日に、マッカーサーから吉田茂首相へ書簡で伝えられました。この書簡のなかでマッカーサーは、「連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはならないと考えている」と書き添えています。しかし、「憲法をもう一度自由に改正していい」と示唆されたに等しいにもかかわらず、吉田の返事は、「1月3日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留めました」と記されただけの、そっけないものでした(*5)。

 極東委員会の決定は3月20日には新聞で公表され、翌48年には日本政府に対して憲法を再検討するよう改めて示唆がありました。これに対し、民間では、東京大学憲法研究会や公法研究会などから、日本国憲法の民主主義の原理をさらに深めるための改正意見が提案されました。しかし、政権内部では、憲法改正を唱える声はほとんどありませんでした。吉田は、2年以内の期限が迫った49年4月末の衆議院外務委員会で、「政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持っておりません」と答弁しています(*6)。

 日本国民の自由な意思によって憲法を再検討し、改正する機会は、日本政府自身によって生かされなかったのでした。(生長の家国際本部 国際運動部講師教育課)

*1=辻村みよ子著『比較のなかの改憲論』(岩波新書、2014年)、99頁
*2=塩田純著『日本国憲法 誕生』(日本放送出版協会、2008年)、242頁
*3=『比較のなかの改憲論』、100頁
*4=「日本の新憲法の再検討に関する規定」(国会図書館ホームページ)http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/05/129/129tx.html(2018年8月25日アクセス)
*5=古関彰一著『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫、2009年)、363〜365頁
*6=『比較のなかの改憲論』、101〜102頁