KKさん│68歳│愛媛県新居浜市 取材/磯部和寛写真/中橋博文 看板・広告制作、新居浜太鼓祭りのグッズ制作・販売業をしているKさん。絢爛豪華な太鼓台の、飾り幕のミニチュアを制作中

Kさん│68歳│愛媛県新居浜市
取材/磯部和寛 写真/中橋博文
看板・広告制作、新居浜太鼓祭りのグッズ制作・販売業をしているKさん。絢爛豪華な太鼓台の、飾り幕のミニチュアを制作中

暗い家庭に育ち、父親を恨(うら)む

 Kさんの家庭は、物心(ものごころ)ついた頃から暗かった。父親が外に女性をつくって滅多(めった)に家に帰らず、帰ったら帰ったで、母親との喧嘩(けんか)が始まった。

 そんな両親の下に育ったKさんは、自信がない消極的な少年になった。

「人にも不信感を抱き、中学、高校と友達はほとんどいませんでした。『こんな家庭に育った自分は不幸だ。これも父のせい』と父を恨(うら)んでいました」

 高校卒業後、働き始めたが、職を転々とした。最初に就いた大阪での衣料品製造販売の仕事は、面白みが感じられず、すぐに辞めて帰郷。次は、埼玉のメッキ工場に就職したが、慣れない仕事のストレスから胃潰瘍(かいよう)を患(わずら)い、入院。その療養中の病院で知り合った人に紹介され、退院後、イベントの設営や看板制作を行う東京の会社で働き始めた。

「レタリングや絵を描くことが好きだったので、この仕事は楽しかったんですが、1年半ほど働いて21歳になった時、家の事情で新居浜(にいはま)に帰らざるを得なくなったんです」

 東京での経験を生かした仕事をしたいと思っていたKさんは、仕方なく地元で顔が利(き)く父親に相談した。すると父親がつてを頼って、市内にある看板屋の仕事を見つけてきてくれた。感謝の気持ちが芽生(めば)えたものの、依然恨みは消えず、くすぶり続けたままだった。

現在はコンピュータによるデザイン、プリントでの制作が主流だが、昔ながらの手書き看板の制作を頼まれることもある

現在はコンピュータによるデザイン、プリントでの制作が主流だが、昔ながらの手書き看板の制作を頼まれることもある

 そんな昭和44年、父親は白血病を発症し、帰らぬ人となった。

「結局、父とは最期まで和解できず、わだかまりを抱え、もんもんとした気持ちで毎日を送っている時、近所の知り合いの人が、読んでみたらと貸してくれたのが、『生命の實相』(生長の家創始者・谷口雅春著、全40巻。日本教文社刊)の第1巻でした」

 その頃、親族から勧められ、ある新興宗教に入っていたが、「自分には合わない」と感じていたKさんは、『生命の實相』に書かれていた「人間・神の子、無限力」の教えに、魂をゆさぶられるような感動を覚えた。

「貪(むさぼ)るように『生命の實相』を読み、本を貸してくれた人の誘いで誌友会(*1)にも参加しました。笑いの絶えない、とてもいい雰囲気の集まりだったので、『これからこの教えを学んでいこう』という気になりました」

「大調和の神示」(*2)を読んで転機が

 転機が訪れたのは、その後、愛媛県松山市で開かれた生長の家創始者・谷口雅春師の講習会への参加をきっかけに、聖経『甘露の法雨』(*3)を買い求めて読んだときのことだった。巻頭の「大調和の神示」にある「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」という一節に強く胸を打たれた。

「『自分がこの世に生を受けたのは、両親がいたからこそ。父がいなければいまの私もない』ということに初めて気づいたんです。同時に、父への恨みが、雪のように溶け、言葉にはできないありがたさに心が震(ふる)えました」

 それを機に青年会(*4)の一員として、人の役に立つ活動に励(はげ)むようになり、消極的で自己中心的だった性格が、積極的で、他の人のことを考えられるように変わっていった。

「昭和50年に独立して、看板制作の会社を立ち上げました。光のように発展しようという意味で、『ヒカリ工芸社』と名付けました。当時は景気がよく、次から次へと仕事が入りました」

善なる神に波長を合わせて生きる

 52年には、青年会仲間の妹さんと結婚し、3人の子供にも恵まれた。家を新築し、投資用のワンルームマンションを購入するなど経営は順調だった。だが、ライオンズクラブに入会し、商工会議所の青年部会長を務め、外に出る機会が増えるのと反比例するように会社が傾いていった。

「不況の影響が大きかったのですが、好況時、それが自分の力であるかのように勘違(かんちが)いしていた。そんな私自身の驕(おご)りが大きかったように思います」

 結局、平成7年に不渡りを出して会社は倒産。先の不安に駆(か)られ、「いっそ死んでしまおう」と思ったこともあったが、周囲への迷惑を考えて思い止まった。

「会社を畳(たた)んですべて清算しようと決めた時、不思議と気持ちが楽になったのを覚えていますが、その頃の私は、すっかり生長の家の信仰を忘れていたんです」

 当時のKさんは、生長の家に身を置きつつ、苦境を脱したい一心で、人に勧められた他の宗教にも入っていた。しかし、平成14年に亡くなった母親からその間違いに気づかされた。

「倒産を経験したおかげで、生長の家の教えを真剣に行じることができるようになりました」(新居浜市内の埠頭で)

「倒産を経験したおかげで、生長の家の教えを真剣に行じることができるようになりました」(新居浜市内の埠頭で)

「その宗教の本部がある横浜まで、母の治癒(ちゆ)を祈願(きがん)しに行ったんですが、結局助からなかった。その時、『神にすがりつけば助けてもらえるというのは、おかげ信仰に過ぎない。生長の家で教えられているように、ただひたすら善なる神に波長を合わせて生きることが本当の信仰なんだ』と思い知ったんです」

 再び生長の家の信仰に目覚めたKさんは、神想観(*5)や先祖供養などの行(ぎょう)に励むとともに、信仰の喜びを人にも伝えるようになった。そして、仕事においても、心機一転、個人で看板制作の仕事を請(う)け負(お)うようになり、23年経った今でも続けている。

「父母の死を通して、本当の信仰とは何かということに気づかされました。いろんなことがありましたが、今考えると、すべて私の魂の修行のために欠かせないものだったんですね。『人生に無駄なことはない』としみじみ思います」

*1=生長の家の教えを学ぶ小集会
*2=生長の家の創始者・谷口雅春先生が昭和6年9月に神より受けた言葉
*3=生長の家のお経のひとつ
*4=12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織
*5=生長の家独得の座禅的瞑想法