河瀬美佐代さん  祖母 90歳 花城(はなしろ)ケイコさん  孫 38歳 茨城県牛久市 取材/多田茂樹 撮影/近藤陽介 写真提供/河瀬美佐代

河瀬美佐代さん 祖母 90歳
花城(はなしろ)ケイコさん 孫 38歳
茨城県牛久市
取材/多田茂樹 撮影/近藤陽介
写真提供/河瀬美佐代

 幼い頃に家族でブラジルに渡り、南米の大地で生き抜いてきた河瀬美佐代さんは、平成11年、72歳の時に日本に戻ってきた。今では近所に大勢の親族が暮らし、河瀬さんはその精神的な支柱となっている。ブラジル生まれの日系三世である孫の花城ケイコさんと共に、ファミリーヒストリーを振り返った

昭和7年、ブラジルに渡る

ケイコ おばあちゃんがブラジルに渡ったのは、本当に小さい子どもの頃だったのよね。

美佐代 そう、昭和7年で、私はその時5歳だったの。お父さん、お母さん、3歳の弟、そしてお母さんの妹と従兄弟(いとこ)の6人だった。和歌山から「りおでじゃねいろ丸」という、とても大きな船に乗り、サンパウロ州のサントスの港に入って、最後に着いたのはアーバイという所。そこでは先に移っていた伯父さんが農業をしていて、一緒に農業を始めたの。親戚皆で寄り添って暮らしていたね。
 農業で成功してお金ができたら、5年で日本に帰るつもりでブラジルに渡ったんだけど、本当に帰って来るまでに67年もかかっちゃった(笑)。

上/1970年代初めに撮った家族写真。中央が美佐代さん。前列にはケイコさんの父親のカツオさんも写っている 右下/三夫さんとの結婚写真。二人とも初々しい 左下/在りし日の三夫さんと美佐代さん

上/1970年代初めに撮った家族写真。中央が美佐代さん。前列にはケイコさんの父親のカツオさんも写っている 右下/三夫さんとの結婚写真。二人とも初々しい 左下/在りし日の三夫さんと美佐代さん

ケイコ 最初に生長の家に触れたのは、私のひいおじいちゃんだったの?

美佐代 そう。私が17歳の時に私のお父さんが、ブラジルで生長の家に触れたの。元々とても信仰深い人だったけど、生長の家の「人間・神の子」の教えに触れたおかげで、何をするにも神様を先に立てるようになっていたのよ。
 私はまだ若かったし、ブラジルは広すぎるから生長の家の集まりには行ったことがなかったけど、お父さんのおかげで神様の素晴らしさはよく分かったよ。たまにお腹が痛くなっても、「実相(*1)円満完全」と唱えてもらえば、すぐに治ったしね(笑)。

ケイコ おばあちゃんは、子どもの頃にブラジルに渡ったのに、日本の心をずっと持ってるよね。

美佐代 小さい時に離れたから、日本のことはあまり覚えてなかったけど、ブラジルに行ってからも家の中はずっと“日本”だったし、まわりにも日本人が一杯いたからね、日本を感じながら育ったのよ。だからとても幸せだった。

ケイコ 幸せと言っても、畑はとても広かったし、仕事は口で言えないほど大変だったんでしょう。

美佐代 それは広かったよ! ずっと遠くまで畑だった(笑)。土の色も日本とは違っていたしね。あの頃は農業機械もなかったから、みんな毎日朝から晩まで働いて働いて……本当によく働いたね。おばあちゃんは若い頃から皆の炊事をして、畑の仕事も一緒にしてた。だからお弁当を運ぶ時も、歩かないでいつも走ってた(笑)。でも、ちっとも大変なことはなかったよ。みんな若くて元気だったからね。どんなに働いても、大変じゃなかった。楽しかった。

カツオさんたちは、ブラジルで他に先駆けて野菜作りを始めていた

カツオさんたちは、ブラジルで他に先駆けて野菜作りを始めていた

ケイコ 私は、そういうところが、おばあちゃんの一番すごいところだと思う。本当は苦労してないわけがないのに、少しも「大変だった」と言わないし、良いことがあれば「神様のおかげ、皆さんのおかげ」としか言わないでしょう。小さい時から、私にはとても真似できないと思ってたの。だけど、今は生長の家の勉強をしたから、少しは見習って、おばあちゃんみたいになりたいと思ってる(笑)。

 美佐代さんは、昭和24年に22歳で三夫(みつお)さんと結婚。親同士が決めた結婚で、夫の家に行った時が正真正銘の初対面だったという。

美佐代 結婚する前に、お父さんが心配して「美佐代も世間を知るようにしなきゃいかん」と言って、知り合いの石塚さんという方の家に預けられたの。サンパウロ州のバウルというところだった。そこのおばさんも、とても良い人で、本当の娘のように可愛がってくれたね。
 そして22歳の時に河瀬の家のおじいちゃんが迎えに来て、結婚して、河瀬家のみんなと一緒に暮らし始めたの。結婚と言っても、それまでは全然知らない人(笑)。石塚のおばさんは、別れが辛くて泣いていた。でも、おばあちゃんは全部神様に任せていたから、全然心配しなかったよ。父が河瀬のおじいちゃんに「娘には何も教えてないし、器用な娘でもないけど、どうぞ宜しく」と言ったら、「器用じゃなくても、一番大切なのは心だから」と言ってもらえてね。とても優しくしてもらった。

ケイコ おばあちゃんは、何でもずっと神様にお任せしてきているから、幸せなんだね。

美佐代 結婚したら、近所の金井さんという人が「美佐代さんの結婚は、ブラジルで一番幸せな結婚だ」と言ってくれて、嬉しかった。河瀬家は神道の家でね。男の人はいつも「天津祝詞(あまつのりと)」を誦(あ)げていた。そして朝から晩まで働いていたけど、お父さんも家族も、近所の人もみんな優しかったよ。
 あの頃、周りの家はみんなコーヒー園をしていたけど、うちは綿花を栽培していたの。だからおばあちゃん、ブラジルにいたのにコーヒー園の仕事は知らないの(笑)。とにかく皆で助け合って、寄り添って暮らしていたから、とても幸せだったよ。ブラジルでは夫婦と子どもだけじゃなく、親戚も一緒の家で助け合って暮らしていたの。

 日系ブラジル人社会では、日本を離れて厳しい環境にいただけに、かえって神を敬(うやま)い、人の和を大切にする日本の古き良き伝統が脈々と受け継がれていたという。やがて美佐代さんは男女4人ずつ、合わせて8人の子どもに恵まれる。ケイコさんの父親、カツオさん(59歳)は、3番目の息子だ。しかし突然、夫の三夫さんとの別れの時が来る。畑仕事で転んで怪我をしてから体が弱まり、肺炎で亡くなってしまう。

ケイコ おじいちゃんが亡くなったのは、私が9歳の時だね。

「慣れない日本でも、生長の家の教えがあったから頑張れた」と語るカツオさん

「慣れない日本でも、生長の家の教えがあったから頑張れた」と語るカツオさん

美佐代 そうだね。体が弱ってからも、「ずっと頑張ってくれたんだから、あとは家の中でリハビリしながら、孫の世話をしてくれるだけでもありがたい」と言ってたんだけどね。風邪からきた肺炎で亡くなってしまった。その時はとても悲しかった。
 でも、やっぱり周りの人たちがとてもよくしてくれてね。とくにカマダさんという北海道出身の人が、たまたま仕事を手伝ってくれる人を探しに来ていて、雇ってもらった。この人も優しくていい人だったね。いろいろな人たちから仕事を紹介してもらって暮らしてこられた。ブラジルの日本人はいろいろな農業の仕事を教え合って、困った時は心を尽くして助け合っていくという気持ちを、皆がもっていたからね。これがとても大切なことね。

日本での生活も、生長の家の教えが支えてくれた

 その後、大規模なトウモロコシ栽培の事業が失敗し、河瀬さん一家には大きな負債が残ってしまう。この借金返済のために日本で働こうと、美佐代さんの長男のヤスオさんと、3男でケイコさんの父親のカツオさんが1991年に来日し、鉄道工事の仕事に従事。1年で返済額を貯めることができ、帰国した。二人は5年後に再び来日し、その時はケイコさんも一緒だった。
 その後、ケイコさんは派遣会社に紹介された茨城県の電子部品工場で働き始めた。
 話がここまで来た時に、カツオさんも加わった

カツオ 日本に行けばいろいろな仕事がある。どんな仕事でも頑張ってやろうということで、僕とケイコの二人で茨城に来たからね。何も知らないところで、よくがんばってくれたよね。電子部品の工場で一度は、派遣社員が全員解雇されることになったのに、神様に祈り続けて、直接の契約で雇ってもらえたこともあった。

ケイコ 私は子どもの頃から日本に憧(あこが)れていて、ずっと行きたいと思っていたの。初めて日本に来たのは16歳で、とても不安だったのを覚えてる。
 最初は言葉の壁がとても大きかったの。ブラジルの家では時々日本語も出ていたから、日本に来ても言葉は大丈夫と思っていたのに、成田空港に着いたら、周りの日本語が全然わからないの。「私はこれからどうなるんだろう?」って、ショックだった。でもいつもポルトガル語版の『甘露の法雨(*2)』を持っていて、つらい時にはそれを読むと不思議に元気になれたの。

明るいブラジルの日射しの中で、2歳頃のケイコさんを抱く美佐代さん

明るいブラジルの日射しの中で、2歳頃のケイコさんを抱く美佐代さん

美佐代 どんな時でも、「神様、神様」と呼んで感謝していれば大丈夫。みんな神様のおかげだからね。

カツオ 僕が生長の家を本格的に学んだのは日本に来てから。いろいろな人が親切に生長の家のことを教えてくれて、茨城県教化部(*3)にも連れて行ってくれたし、日本に来ているブラジル人ともたくさん知り合って、ポルトガル語の誌友会(*4)も開くようになった。だから心強かった。

ケイコ 日本に来てお父さんと一緒に働きながら、ポルトガル語の誌友会に行くと、日系ブラジル人の生長の家の信徒さんが一杯いて、とても力になってくれた。それからお母さんも日本に呼んで、おばあちゃんも、伯父さん、叔母さん、従兄弟たちも次々に日本に来て、皆で生長の家を学んで、働いて、借金も返すことができて本当によかった。
 お母さんが一時、慣れない暮らしでうつ状態になったこともあったけど、生長の家の教えのおかげで元気になったよね。

子や孫、ひ孫たちの幸せを願う

 今、カツオさんは太陽光発電パネル設置の仕事をしており、独立して小さいながら自分の会社を持つまでになった。これも生長の家の教えを真摯(しんし)に行じてきたおかげだろう。

美佐代 13年前におばあちゃんが日本に帰ることになった時、ブラジルではみんながお別れの会を開いてくれたの。集まった人たちは心から別れを惜しんでくれたよ。
 ブラジルは土地が広いから、連作で土地をダメにしないために、いろいろな土地に引っ越すでしょう。ブラジルでは日本人の真面目さは知られているから、みんな日本人に土地を貸したがるの。だから引っ越す度に知り合いが増えて、その知り合いがみんな集まってくれた。近所に、ついこの間まで刑務所に入っていたという男の人もいてね。黒人でとても優しいの。その人も来てくれて、別れを惜しんでくれた。日系人の人たちは、「河瀬のおばあちゃんは日本に帰るのか、うらやましいなあ」と言ってね、みんなで泣いて別れたのよ。

ケイコ その話は、今初めて聞いたわ。ブラジルではいろいろなことがあったし、皆一緒に生きていたからね。別れは辛かったのね。でも、日本に来てしばらくしてから、あの東日本大震災で、茨城県もものすごく揺れたでしょう。ブラジルでは地震なんかないから、本当に怖かった。

この日に集まった美佐代さんの子どもや孫、ひ孫たちとその家族。これでもほんの一部だ

この日に集まった美佐代さんの子どもや孫、ひ孫たちとその家族。これでもほんの一部だ

美佐代 うぅん、地震のことはあまり覚えていないの。「神様、神様」と祈っているうちに収まってしまっていて、怖いとはちっとも思わなかった。

ケイコ おばあちゃんって、本当にすごい! おばあちゃんがそんなふうにいつも神様に祈って感謝して、皆の幸せばかり祈っていてくれるから、私たちがんばれるんだと思う! おばあちゃんが、ただここにいてくれるだけで、私たちは安心できるの。

美佐代 実は5、6年前、40度の熱を出して入院した時、夢を見てね。きれいな天国みたいなところに大きな木があって、地面には花が一面に咲いてるの。そこに亡くなった親戚たちがいてね、生まれてすぐに亡くなった妹もいたの。その人たちに「こっちにおいで」と呼ばれて、どうしようかなあと思って、一歩踏み出したところで、急にケイコの声が聞こえて、呼び戻されたのよ。

ケイコ そうだったの? あの時は、おばあちゃんの意識がないから、心配でたまらなくて必死に呼びかけたんだけど、それで戻ってきてくれたんだね。

美佐代 あの世に行くのを、ケイコが引き留めてくれた(笑)。おばあちゃん、死ぬのはちっとも怖くないけど、あのことでまだ私には生きる使命があると分かったら、こんなに元気になっちゃった(笑)。そして『日時計日記(*5)』を書き始めたのよ。

 美佐代さんは生長の家の『日時計日記』に、毎日几帳面(きちょうめん)な日本語の細かい字で、生かされている喜びを綴(つづ)っている。ケイコさんは平成12年に結婚し、今は3人の子どもの母親になった。子どもたちはみな生命学園(*6)に通い、この夏には4人目が生まれる。
 美佐代さんには今、42人の孫、27人のひ孫がいて、全員に心から慕われている。そして、ひ孫はこれからもさらに増えていくことだろう。

ケイコ おばあちゃん、ひ孫の名前までは全員覚えきれないでしょう(笑)

美佐代 昔の知り合いの名前はみんな忘れないのにね(笑)。でも、みんな本当に元気な神の子で、嬉しくて嬉しくて、毎日、子どもたちの幸せを願い、神様に感謝してるのよ。

 話している間、何度も合掌していた美佐代さんだが、最後にひ孫の話になると、一際長く手を合わせた。

*1 神によって創られたままの完全円満なすがた
*2 生長の家のお経のひとつ
*3 生長の家の布教・伝道の拠点
*4 教えを学ぶつどい
*5 生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊
*6 幼児や小学児童を対象にした生長の家の学びの場