関口優子さん (45歳)横浜市 キャリーバッグにダンスシューズや衣装を詰め込んで、颯爽と出かける。1日のスケジュールがびっしりの関口さんだが、「家庭の中が明るくて幸せだからこそ、私は自分らしく輝けるんです」

関口優子さん (45歳)横浜市
キャリーバッグにダンスシューズや衣装を詰め込んで、颯爽と出かける。1日のスケジュールがびっしりの関口さんだが、「家庭の中が明るくて幸せだからこそ、私は自分らしく輝けるんです」

 モダンダンスのインストラクターをしている関口優子さんは、姿勢も歩き方も美しく、ぱっと花が咲いたような笑顔を見ていると、こちらも心が軽やかになってくる。

「モダンダンスというのは、クラシックバレエより制約が少なく、裸足で全身を使ってのびのびと、自分の感情や想いを自由に表現するダンスで、私には向いているんですね」

 母親の勧めで5歳から地元のバレエ・ダンス教室に通い始め、キャリアは40年。ダンスのレッスンが日常の一部になっているからか、ピュアな妖精のような雰囲気がただよう。快活な笑顔を浮かべる関口さんだが、少女時代は家に帰るのが嫌で、バレエ教室で踊ることが、現実を忘れ、別世界に没頭できる唯一の時間だったという。

絶望から立ち直るが……

 関口さんは横浜市で、両親と兄、弟の5人家族の中で育った。父親は銀行員、母親は専業主婦だったが、父親の女性問題で両親の不調和が続き、家庭の中は常に暗かった。だが関口さんは、モダンダンスという自己表現の場を得たことで、家の外では明るい少女として過ごした。

 高校卒業後は、ミュージカル俳優を目指して、歌と踊りを学ぶ専門学校へ進んだが、指導者との関係に悩み、学校を退学。ダンスグループにも所属していたが、そこでも努力だけではなかなか役がもらえない現実にぶつかり、自信を失って辞めてしまう。その後、20歳の時から1年近く部屋に引きこもる日々が続いた。

「自分は社会に適応できない人間で、生きる価値がないとさえ思いました。こうなったのは親のせいだと、心の中で裁(さば)いてばかりいましたね」

 このまま死んでしまいたいと2週間近く食事を断ち、意識がもうろうとなった時、「神様、お母さん、助けて!」という気持ちが湧(わ)き起こったという。そんな時、部屋をノックし、生長の家宇治別格本山(*1)の練成会(*2)を勧めてくれたのが母親だった。母方の祖母が近所の人からもらった『白鳩』誌を読んでいたこともあり、母親は、関口さんの弟が不登校になった時、練成会に参加した経験があったのだ。

いのちのつながりや家族の笑顔を大切にしながら、内から湧き上がる喜びを、モダンダンスで表現する関口さん。その毎日は充実し、輝いている

いのちのつながりや家族の笑顔を大切にしながら、内から湧き上がる喜びを、モダンダンスで表現する関口さん。その毎日は充実し、輝いている

「でも私は、そこに行けば、望み通り死ねることができるかもしれない……そんな気持ちだったんです」

 その日の夜遅くには、京都の宇治別格本山に到着していた。しかし、10日間の期間のうち、最初の5日間は行事に参加せず、道場の近くにある公園のベンチに座り、ボーッと川を眺めているだけだったという。

 流れる川を見つめていると、中洲の川べりにヘドロや汚いゴミが溜まっているのが見えた。そこから下流へ目を移すと、再び二筋が合流して清らかな流れになっていた。ふと上に目をやると、それまで全く気づかなかった5月の新緑と光がまぶしく、遠くの朱色の太鼓橋を老夫婦が手を取り合い、ほのぼのと散歩している。

「ああ、なんて綺麗なんだろうって。今の自分が溜まっているヘドロに感じ、私もあの美しい世界に行きたいって、その時、感じたんです」

 次の日からは行事に参加した。

「人間は神の子で、自分の環境は自分の心が創り出すという講話を聞き、新しい世界が広がったように思えました。死にたいとばかり思っていた私が『生きよう!』という気になったんです」

 その後、自分から学び始め、感謝の大切さも学んだ。両親への感謝はすぐにはできなかったものの、親からの経済的な支援に感謝できるようになっていった。引きこもりから完全に脱し、アルバイトの傍(かたわ)ら、渋谷のダンススタジオで踊っていると、あるダンスグループから声をかけられ、舞台に立つようになる。

 宇治での感動や、内から湧き上がる感情や想いをモダンダンスで表現していくことが、自分の魂の願いだと気づく。そんな、ダンスに打ち込む日々は輝いていた。

 その後、平成11年、28歳の時に結婚。だが、その後に待っていたのは再び苦悩の日々だった。

感謝の気持ちに満たされて

「父とは正反対のタイプの人を選んだつもりだったんですけど、夫も父と同じように女性問題を起こして」あっけらかんと笑いながら関口さんは振り返る。

 結婚後もダンサーを続け、幼い頃から通っていた地元のバレエ・ダンス教室に、インストラクターとして勤め始めた。

「やはり私が忙しくて、夫にさみしい思いをさせていたんだと思います。それに、夫は社交的で、誰にでも真摯(しんし)で優しいので、他の女性からも信頼されちゃったんでしょうね」

 今なら想像がつくが、ダンスを続けながら、妻としても母としても手を抜いてはいけないとがんばっていた関口さんにとっては、青天の霹靂(へきれき)だった。

 再び宇治別格本山に救いを求めて、練成会に参加。個人指導の中で、「自分が本当はどうしたいのか選択すること」「問題をいったん放つこと」を教えられた。

「初めてじっくりと先祖供養の大切さも学び、『いのちのつながり』のすばらしさを知ったんです。ご先祖様がいてくれたから、夫にも息子にも出会えたのだと感謝の心が芽生え、生まれてきて良かったとしみじみ思えてきて」

 宇治から戻っても、すべてを急に変えることはできなかったが、母親教室(*3)や誌友会(*4)に積極的に参加し、問題を頭から放って、ダンス教室の仕事も休むことなく続けた。

これまでのモダンダンスの発表会の写真

これまでのモダンダンスの発表会の写真

「生長の家で『鏡に向かって笑顔の練習をしましょう』と習っていたので、どんなにつらいときも毎日鏡に向かって笑いかけました」

 家庭内が不安定な日々は、その後37歳の頃まで続いたが、明るい方向へ心を切り替える勉強を続けるうちに、自分が育った家庭を批判する思いが消えていき、いのちを与えられていることに感謝できるようになっていった。そして、両親に対して心から「生んでくれてありがとう」と初めて『日時計日記(*5)』に書けた時、父親への葛藤も消え、夫の問題からも卒業できたのだった。

何より大切な家族の笑顔

 さまざまな問題が解決してから8年。少女時代や結婚後の悲しみを乗り越えたからこそ、今、「家族の笑顔」が何より大切だと感じている。

「一時、私の帰宅が遅くなり、スーパーのお弁当を買って帰った日が続きました。ある時から長男がそれを一切口にしなくなり、子どもはお腹を満たすために食べているのではなく、親の愛情を食べているのだと痛感し、それからは簡単なものでも心を込めた手づくりの夕食を食卓に出し、一緒に食事をすることを心がけました」

 夫には、どんな小さなことでも「ありがとう」と言う習慣をつけ、毎朝、ハグをして笑顔で送り出し、休みが合う時は夫婦二人で出かける時間を増やした。かつて見た美しい老夫婦の光景を思い出しながら……。お城が好きな長男と家族三人で、全国の名城めぐりを楽しむ旅にも、毎年出かけている。

 家族との温かいふれあいを第一にしながら、踊りを愛する自分らしさも失わず、生き生きとダンス教室の仕事にも携わっている。

「自分の感性を通して、いのちがつながっているという喜びを、家族から生徒、私のダンスを観て下さる方々へと広げたいですね」

 かつて「お母しゃん、泣かないで」とのぞきこんでくれた小さな長男は、この春から高校生となり、父親と同じように明るく屈託(くったく)なく母親に話しかけ、会話も弾む。

 毎朝5時に起床して、祈り、家事、仕事、生長の家の勉強……スケジュールはぎっしりだが、「すべてを楽しみながらやっているから、疲れないんですよ!」キラキラした、初夏の光のような笑顔がまぶしかった。

長男の拓斗君はこの春から高校生。3歳からダンスのレッスンを始め、今ではダンス歴12年。明るい父親の性格を受け継ぎ、会話も弾む

長男の拓斗君はこの春から高校生。3歳からダンスのレッスンを始め、今ではダンス歴12年。明るい父親の性格を受け継ぎ、会話も弾む

*1 京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*2 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*3 母親のための生長の家の勉強会
*4 教えを学ぶつどい
*5 生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊