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山田春子さん(62歳)茨城県 取材/宮川由香

 山田春子さんの長男・徹さんが学校を休みがちになったのは、平成8年、中学1年生の5月頃だった。小学校時代はクラスの人気者で、中学の入学式では新入生代表として挨拶した。さらに学級委員にも選ばれたと知り、山田さんは嬉しい気持ちになっていた。そんな矢先の出来事だった。

「本人は、実は人前に出ることが苦手で、半(なか)ば強制的に選ばれたことが、そうとう苦痛だったみたいです」

小さい頃から人見知りがちだった徹さんだったが、中学では他校出身の同級生も増え、熱血タイプの男性教諭の前でホームルームの司会をしなければならず、朝になるとプレッシャーと緊張で吐き気がして、身体が動かなくなってしまったのだ。山田さんにとっては青天の霹靂(へきれき)だった。

「学校に慣れさえすれば何とかなるだろうと思って、何度も車で校門まで送り、行かせようとしました。でも、それは逆効果だったんです」

中学1年生の3学期からはまったく登校できなくなった。誰かと会うのが嫌で外出もしなくなったが、普通に家族とは団らんしていたという。

「当時は私の両親と主人、3歳違いの次男の6人家族。誰一人、徹が学校に行かないことを責める人はいませんでした。でも、私は陰で泣いたこともありましたし、担任と何度も相談し合い、何とかしたいと焦っていました」

息子は尊い神の子

 山田さんは「良い奥さん、良い母親になって、良い子を育てたい」という理想をずっと持っていた。「私の期待が大きすぎて、長男はそれに応えようと無理をして、心が折れてしまったのではないかと思い、自分を責める気持ちになりました」。さまざまな所に相談したが、気持ちが晴れることはなかった。

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 転機となったのは、徹さんが中学を卒業した平成10年の6月のことだった。その頃は、市の児童相談所のカウンセリングに通っていて、そこには不登校等の子どもたちが通えるスペースもあり、徹さんも卓球などを楽しむようになっていた。所長に相談すると、同じように不登校の子どもを持つ女性を紹介してくれた。

「その方は私の悩みをすべて包み込んで聞いて下さって。『この方のバックボーンにあるものは何なんだろう。私もこんな人になりたい』という気持ちが湧き起こってきたんです」

その女性が話の最後に、「私は児童相談所で話を聞く以外にも、こんな勉強をしているんですよ」とにこやかに見せてくれたのが『白鳩』誌だった。母親教室(*1)という勉強会のことを聞き、行ってみたいと思った山田さんは、自宅近くの母親教室に参加した。

「そこで初めて、『私たちは神様に護られている』というお話を聞き、驚くというよりストンッと心に入って、ものすごく感動したんです。きっと何かを求めていたんですね」

その翌日から毎朝4時半に起き、近くの母親教室の早朝神想観(*2)に通うようになった。

「雨の日も風の日も、休まず夢中で通いました。毎朝、お祈りをするたびに心が穏やかになっていくのが嬉しかったですし、『本当にあるのは善(ぜん)のみの世界。神様に護られている世界』というお話を繰り返し聞き、また、近くの教化部(*3)で『あなたの息子さんは、神様からお預かりしている尊い神の子です。神様が育てて下さるから、神様にお任せしていれば大丈夫』『現象にどのような姿が現れていても、実相(*4)は完全円満』という講話を聞くうちに、安心した気持ちになっていきました」

花を咲かせるための準備期間

 徹さんは中学卒業後、通信制高校に入学したものの続けられなかった。だが、山田さんは教えを学ぶにつれて、「大丈夫」という安心感が生まれ、ショックはなかったという。自分を責める気持ちも消えていき、現象的な姿に振り回されなくなった自分に喜びを感じた。平成14年には、家計のことも考えて訪問介護の仕事に就いた。

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「認知症やうつ病など様々な病を持つ方とも関わりました。生長の家で学んだ通りに、目に見える姿の奥にある本当のすばらしい姿を観て接していたら、みるみる元気に明るくなられるのを何度も目の当たりにして、そのつど大喜びで、『お母さんね、今日、こんなことがあったのよ』と食卓で家族に報告していました。長男は、興味深げに耳を傾けてくれていましたね。『働くことの楽しさ』に触れさせたいという思いもありました」

そんな日々が続いていたある日、19歳になった徹さんは突然自動車教習所に通いだし、免許を取得した。それまでにない大きな一歩だった。さらに平成18年、23歳の時に自ら手続きをして、定時制高校に通い始めた。母親が日々充実して、生き生きと輝いている姿は、徹さんの心を大きく動かしたようだ。

 定時制高校では、年下の同級生とも馴染(なじ)んで無遅刻無欠席、成績はオール5。4年間で取る単位を3年間で取得し、高校認定試験も自分から補習を受けて一発合格した。大学推薦の話も来たが、家計のことと、仕事と夜学の両立に自信がなかったことから、卒業後は金属加工会社に就職した。

しかし、職場の人間関係のストレスから1年で退職。その後4年間は、ニートの状態が続いた。

「長男がどういう道を選んでも、心の底から信頼しているし、神様に護られている自信があったので、『辞めたいなら辞めちゃいなさい』って私の方から言ったくらいです。教えを学んでいなかったら『せっかく就職したんだから、もっとがんばりなさいよ』と追い詰めていたかもしれません」

 徹さんが仕事を辞めた平成22年の頃は、山田さんは55歳。介護福祉士の資格を持つ職場の責任者として多忙な毎日を送っていた。家に戻ると、疲れてぐったりすることも増えた。

「横になっているときも、生長の家の本を読んだり、講話のテープを聞いたりし、長男に読んでもらうこともありました。教化部や誌友会(*5)に行きたくても運転が不安なときは、長男に運転してもらいました。最初は私の付き添いだった長男も、徐々に自分一人でも教化部や誌友会、富士河口湖練成道場(*6)の練成会(*7)にも行くようになったんです」

 急激に変化したわけではなかったが、生長の家の教えに触れて以来、ことあるごとに、「どんなに強い風雪にも耐えられる草花や樹木は、地下に驚くほどたくましい根を張ってるんだよ。徹は今、地下に根を張って、きっと大きく徹らしい花を咲かせる準備をしている時だね」と言い続けてきた。親の積極的な言葉はまさに、子どもの根っこに与える水であり、最高の肥料だったのだろう。

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 平成22年から26年は、徹さんと二人で生長の家の本を輪読したり、行事に参加するなど、生長の家三昧(ざんまい)の時間を過ごせたという山田さんには、ニートを続ける徹さんへの不安も消えていた。

「生長の家の教えと出合って、真っ暗な長い長いトンネルの向こうに鉛筆の先ほどの光が見え、その光に向かってただひたすらに歩んできた気がします。何が起こっても、すべて善いことと切り替えられる自分に成長させていただけたことは、ありがたいです」

 平成26年秋、徹さんは自ら職を探し、書店からの返本を整理する会社に採用された。面接では過去のこともすべて話したという。今は職場の先輩に可愛がられ、自然体で働いている。

荒波を乗り越えて、しっかりとした絆(きずな)で結ばれた母と息子、そして家族の見徹り。常に信じてくれた母親を見つめる徹さんのまなざしは、愛情がこもった優しさに満ちていた。

●長男・徹さん(33歳)の話
この家に生まれたことが一番の幸せ

学校に行かなくなった頃の記憶はあいまいなのですが、たぶん、いきなりクラスをまとめる役をやらされて自分勝手にプレッシャーを感じ、キャパシティーオーバーになったんだと思います。ただ、祖父母も両親も、家にい続ける僕を責めるようなことはありませんでした。母は僕の前では気丈で、明るくいてくれましたが、一度だけ、あまりに自暴自棄なことを言ってしまった僕に、「そんな思いにさせてしまったお母さんが悪い!」と号泣されたことがあり、それを見て驚き、もう二度と母を悲しませる言葉は言うまいと決めたことは覚えています。

母は常に、「あなたは絶対大丈夫」といった言葉を朗らかに投げかけてくれました。僕が無職の頃も、大好きな生長の家の本を一緒に読めることを心底喜んでいる様子でしたし、僕自身、あの頃は『生命の實相(*8)』を夢中で読みました。教化部では人柄や生き方がすばらしい先生方と出会い、生長の家に関わっていきたいと思うようになり、人生についても積極的に考えられるようになりました。

富士河口湖練成道場の練成会に行った時は、「自分の中に革命が起きたわけじゃなかったが、ここでの体験は必ずこの先の人生に役立つと思う」と感想文に書きました。

「必ず、徹らしい花が咲く」──そう言って、どんな時も僕を信じ続けてくれた母に、心から感謝しています。この両親や家族でなかったら、ずっと部屋に引きこもったまま自己否定して、悶々(もんもん)と苦しみ続けていたかもしれません。自分にとって一番の幸運はこの家に生まれたことですね。


*1 母親のための生長の家の勉強会
*2 生長の家独得の座禅的瞑想法
*3 生長の家の布教・伝道の拠点
*4 神によって創られたままの完全円満なすがた
*5 教えを学ぶつどい
*6 山梨県南都留郡富士河口湖町にある生長の家の施設
*7 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*8 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。