深田雄三(ふかだ・ゆうぞう) 生長の家本部講師 生長の家長崎南部教区・長崎北部教区教化部長。趣味は神社仏閣の御朱印集め。妻と二人暮らし。

深田雄三(ふかだ・ゆうぞう)
生長の家本部講師
生長の家長崎南部教区・長崎北部教区教化部長。趣味は神社仏閣の御朱印集め。妻と二人暮らし。

肉体が無くなれば、何も残らない?

  人は「大切だ」と思うものは大事にします。例えば、「お金は大切だ」と思うからこそ、人はお金を金庫にしまったり、銀行や親に預けたりして大切にします。しかし、反対にお金を大切だと思わず、「いつか消えてしまうもの」と考えていたら、きっとそんなに大切にはしないはずです。

 それと同じように、「いのちとは、いつかは消えてしまうものだ」という考え方でいると、どうしても「いのち」を粗末に扱うことになってしまうのです。こうした考え方のもとには、私たちの肉体そのものが「いのち」だと捉えていることに原因があると思います。

 確かに、人間は長生きの人でも、だいたい100年くらいで亡くなり、肉体も無くなります。しかし、もし肉体が無くなったら「何も残らない」というのであれば、お墓を作って、おまつりをする必要もないということにもなりますが、多くの人々はお墓を建てて、礼拝(らいはい)をしています。そうした人々はきっと、肉体が無くなっても生き続けている、目には見えない「いのち」そのものを拝んでいるのではないでしょうか。

「いのち」は決して無くならない

  生長の家では、「人間の本当の姿は完全円満であり、いのちは永遠である」と説き、「肉体は、人間の『いのち』の一時的な道具である」と考えます。ある年数がたつと肉体が無くなるのは、その“道具”を入れ替えるためであり、「いのち」そのものは無くならないのです。

 つまり、その消えない「いのち」とは、目に見えている「肉体」のいのちではなく、「肉体」という道具が消えても壊れても、生き通している「完全円満ないのち」であるということです。永久に死なず、無限の力をもった生き通しの存在であるということ、それを「神性」といい、「仏性(ぶっしょう)」ともいいます。

「そんな目に見えないものは、あるかないか分からない」という人がいるかも知れませんが、目に見えなくても“ある”ものは沢山あります。例えばスマホで使われている電波は目には見えませんが、電波があるからこそ、スマホを使うことができます。それと同じように、「見えない」ということと、「無い」ということは全く違うということです。

人生は学校のようなもの

 生長の家では「人間は神の子であり、無限の力を内に宿している」と説いています。そして、人生とは、この無限の力を表現するための、何回も入学ができる「学校」のようなものだとも言います。

 だから、人生における様々な出来事は、私たちに“何か”を教えてくれる先生みたいなものであり、一時的に失敗したからといって、決して「もう駄目だ」と思ったりしてはいけません。困難な出来事や苦手な相手に対して感謝の思いを持ち、明るく前を向いて生きることが大切です。

 何故なら、人は皆、永遠に死なない「いのち」を持った神の子であるからです。そして、無限の可能性を表現していくことが、本当の「いのち」を生きることそのものであるからです。