山田康弘(やまだ・やすひろ)さん(東京都立大学教授) 山田康弘さんのプロフィール 1967年、東京都生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒業、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科中退。博士(文学)。現在、東京都立大学教授。専門は先史学で、縄文時代の墓制を中心に当時の社会構造・精神文化について研究を行う一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めている。著書に『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』(同成社)、『老人と子供の考古学』(吉川弘文館)、『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮選書)、『縄文人の死生観』(角川ソフィア文庫)、『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)、監修に『縄文時代の不思議と謎』(実業之日本社)などがある。 聞き手/遠藤勝彦(本誌) 写真/堀 隆弘

山田康弘(やまだ・やすひろ)さん(東京都立大学教授)
「縄文時代をある種の楽園、ユートピアとする論調もありますが、過去に対する過度の美化には慎重でありたい」と語る山田さん。東京都立大学の研究室で

山田康弘さんのプロフィール
1967年、東京都生まれ。筑波大学第一学群人文学類卒業、筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科中退。博士(文学)。現在、東京都立大学教授。専門は先史学で、縄文時代の墓制を中心に当時の社会構造・精神文化について研究を行う一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めている。著書に『人骨出土例にみる縄文の墓制と社会』(同成社)、『老人と子供の考古学』(吉川弘文館)、『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』(新潮選書)、『縄文人の死生観』(角川ソフィア文庫)、『縄文時代の歴史』(講談社現代新書)、監修に『縄文時代の不思議と謎』(実業之日本社)などがある。

聞き手/遠藤勝彦(本誌) 写真/堀 隆弘

6つに区分される縄文時代・縄文文化

──まず、日本の歴史の中で縄文時代・縄文文化というのは、どういうものとして捉えられているのかについて教えていただけますか。

山田 縄文時代とは、時間的にもっとも長く考えた場合、土器の出現(もっとも古い場合は約1万6500年前)から、灌漑水田稲作が開始されるまで(早くは3000年ぐらい前、遅くとも2400年前)を指します。

 そして、この時期に日本列島域において、狩猟・採集、漁労を主な生業とし、さまざまな動植物を利用し、土器や弓矢を使って本格的な定住生活を始めた人々が残したユニークな文化のことを、縄文文化と呼びます。

 この縄文時代・文化は、1万年以上続いたとされていますが、大きな時期差や地域差があって、これを一つの時代・文化として取り扱うことは適切ではありません。私たち考古学研究者は、縄文時代・文化を一括りにするようなことはせず、いくつかの時期や地域に分割して研究することが多く、大きく6つの時期に区分しています。

──その6つの時期とは、どんなものなんでしょうか。 

山田 1つ目は「草創期」と呼ばれるもので、1万6500年前から1万1500年前頃の大体5000年間ぐらいをいいます。縄文時代に先行する旧石器時代の文化から、先ほど述べたような、本格的な縄文時代の文化へと次第に移り変わっていく時期のことです。

 2つ目は「早期」と呼ばれ、1万1500年前から7000年前頃の約4500年間です。この時期には、気候が急激に暖かくなったため海水面が上昇し、日本列島域における沿岸部の地形や自然環境が大きく変化しました。それに伴い、日本列島域の各地で、新しい環境に適応して次第に定住生活が始まりました。

 またこの時期は、新しい自然環境における動植物の中から食べられるものが見つけ出され、食料の種類が以前より豊富になり、特に魚介類については、新たに食料に加えられたものも多く、それによって各地で、皆さんよくご存じの貝塚が形成されました。そうしたことから、縄文文化の基礎がつくられた時期として理解できるわけです。

 3つ目が「前期」と呼ばれ、7000年前から5470年前頃の約1530年間です。気候がもっとも温暖化し、関東地方では、現在の栃木県栃木市辺りまで海が入り込んでいた時期にあたります。

 この頃には、台地の上を居住地点として大規模な集落がつくられた一方で、台地に隣接する低地の開発も進み、水場(飲料水を得るだけでなく、ドングリなどの堅果類のあく抜きなど、水を利用したさまざまな作業を行う場所)として利用されることが多くなったと言われています。また、漆(うるし)の利用も本格化するなど、さまざまな植物利用が行われるようになって、遺跡数、人口も増加し、早期の文化を発展継承して、縄文文化が大きく花開いた時期です。

縄文時代のイメージを形成している中期

──残りの3つはどんな時期だったんでしょうか。

山田 4つ目は「中期」と呼ばれ、5470年前から4420年前頃の約1050年間を指します。

 この中期においては、地域によって100棟以上の住居からなる大型の集落が形成されるとともに、人口は全国で26万人を超え、もっとも人口が多かった時期で、前期までの発展をさらに拡大させていった、縄文文化の高揚期です。

inoti138_rupo_5 一般に縄文土器として紹介されることが多い、派手で大ぶりな文様が付けられた土器や、国宝の土偶(どぐう)「縄文のビーナス」のように、妊婦を模している土偶の多くは、この中期に作られました。縄文時代を代表する時期として取り上げられることが多く、縄文時代のイメージを形作っているのがこの中期です。

 5つ目は「後期」で、4420年前から3220年前頃の約1200年間です。中期の終末から後期の最初の頃に、気候が冷涼となる時期があり、それによって中期までの集落や墓のあり方、社会構造や精神文化などに変化が生じました。そのため縄文文化の変容期とされる時期で、後半には北海道や東北地方北部等で、特別な墓がつくられるなど、従来のイメージにあるような、単純な平等社会とはやや異なった状況が見られるようになりました。

 そして6つ目が「晩期」です。3220年前から2350年前頃で、6つの区分の中では一番短い約870年間のことをいいます。

 この時期には東北地方において、精巧な亀ヶ岡式土器や遮光器土偶を生み出した亀ヶ岡文化が発達しました。ただし、九州においては、3000年くらい前から灌漑(かんがい)水田稲作が開始されるため、他の地域の約870年間に比べると200年程度しかありません。そういう意味で縄文時代の後に続く弥生時代との連続性を巡って、さまざまな議論が行われている時期です。

 このように縄文時代の時間幅の約3分の2は、草創期と早期が占め、前期以降の期間は全体の3分の1ほどの時間幅しかありません。したがって、あたかも縄文時代の代表例として取り上げられることが多い中期の火焔型(かえんがた)土器や、先ほど紹介した晩期の遮光器土偶は、縄文時代の末期3分の1の時間における一時的なものに過ぎないことになるわけなんですね。

縄文時代・縄文文化は日本固有の歴史

──縄文時代が、悠久な時間の流れの中にあったことがよく分かりました。この時代や文化が日本固有の歴史なのか、という点についてはいかがですか。

山田 この縄文時代や縄文文化といった言葉は、今から50年くらい前にようやく広く一般に認知されるようになった新しい歴史用語で、日本にしか存在しません。少なくとも、第二次世界大戦以前における日本の歴史には、縄文時代も弥生時代もなく、当時、これらは一括して石器時代と呼ばれていました。それが、戦後のある時期から、日本独自の縄文時代や弥生時代といった言葉が専門書や教科書に登場するようになり、やがてそれが一般化していったんです。

 私は、その背景には1951年のサンフランシスコ講和条約(日本の国権回復)、56年の国際連合加盟(国際的な国家としての承認)、57年の南極昭和基地の建設(科学先進国への仲間入り)、及び60年の日米安全保障条約の改定とそれに対する反対闘争、さらには50年の朝鮮戦争勃発による特需景気、54年から73年にかけての高度経済成長があったと考えています。

 日本が戦後において、真の独立国家としての歩みを開始し、国際社会の中でそれを自覚して、日々の生活において豊かさを享受していったこの時期に、縄文時代、弥生時代などという日本独自の歴史区分が積極的に採用され、一般化したのです。ですから、新しい日本の確立と、新しい日本の歴史の叙述や日本独自の新しい時代区分の登場は、当然のことながらリンクしていたということだと思います。

新石器革命に比肩できる内容を持った縄文文化

──この縄文時代を世界史の中で見るとどうなるんでしょうか。

山田 世界史的には、文字が使用されていない時代(先史時代)のうち、多くの道具を石でつくった石器時代(青銅でつくれば青銅器時代、鉄でつくれば鉄器時代となる)は、2つに分けることができます。一つは、大きく石を打ち欠いてつくった打製石器を主に使用する旧石器時代であり、もう一つは打製石器に加えて、石を磨いて刃部(じんぶ)をつくり出すなどした磨製石器を中心に使う新石器時代です。

inoti138_rupo_6 縄文時代では、石鏃(せきぞく)(矢じり)や石匙(万能ナイフ)などの鋭い刃物類には打製石器を用いましたが、石斧(樹木伐採用の斧)や石皿(堅果類をすりつぶす臼)の他、石棒や石冠などの呪術具に磨製石器を多く使用しています。その意味では、縄文時代は新石器時代に含まれるんですが、ヨーロッパやアジア大陸では、新石器時代に農耕や牧畜が起こり、その後、社会が大きく発展したことから新石器革命と呼んで特別視することがあります。

 その基準からすると、農耕や牧畜の存在が確認されてない縄文時代は、新石器時代にあたらないことになってしまう。ところが縄文文化には、直径1メートルにも及ぶ柱材を使用するような大型の建物をつくる建築技術や、クリ林の管理や漆工芸などをはじめとするきわめて優れた植物利用技術があり、各地の環状列石(ストーンサークル)や土偶などに見られる複雑な精神文化もあったわけです。

 こうしたことから考えると、農耕・牧畜はなくとも、縄文文化は新石器革命に比肩できる内容を十分に持っていたと言えます。その意味では、縄文時代は日本列島域に展開した、ユニークな新石器時代として捉えるべきであると考えています。

小規模集落を形成し、竪穴式と平地式の家に住む

──縄文時代の家や集落は、どんなものだったんでしょうか。

「縄文時代には、石、動物の骨や角、木などでさまざまな生活の道具がつくられていたんです」

「縄文時代には、石、動物の骨や角、木などでさまざまな生活の道具がつくられていたんです」

山田 当時の人々は、基本的には地面を掘りくぼめた竪穴式住居の中で寝起きしていたようです。また、四角形や六角形に配置された柱の痕(柱穴)しかない、つまり地面を掘りくぼめない掘立柱建物跡も発掘されていることから、縄文時代には竪穴式と平地式の2種類の住居があったと思われます。

 これが、季節や用途などに応じて使い分けられていたのかどうかについてはまだ解明されていませんが、縄文時代の後半には、平地式の住居の数が多くなるという傾向があるのは確かです。

 集落に関しては、その規模や構成などを含めて、時期差や地域差が非常に大きかったことが分かっています。例えば、中期の関東地方では、全時期合計で100棟を超える竪穴式住居が円形(環状)に配置された大規模な環状集落が目立ちますが、同じ時期の西日本では、住居跡が数棟しかない小規模な集落が多いんです。

 しかし、縄文時代全体を眺めると、本来的には西日本のような小規模の集落の方こそが一般的であり、関東地方のような大規模な環状集落の方がむしろ特殊なものだったことが分かっています。

自然から集めたものを食べ、さまざまな工夫を凝らして保存

──縄文時代の人々は、どんなものを食べていたんでしょうか。

inoti138_rupo_8山田 自然から集めることができるものは何でも食べていたと思いますが、クリやクルミ、トチ、ドングリなどの堅果類をはじめ、シカ、イノシシといった陸獣、タイ、スズキ、サケといった魚類など特定のものに偏る傾向があったようです。

 当時の食事を再現してみると、炭水化物やタンパク質などについては、栄養学的には十分足りていることが分かってきたんですが、味覚的には甘みがどうしても足りない。そのために、おそらくアケビやコクワ(サルナシ)、ヤマブドウなどといった野山の果実類やハチミツなどを好んで食べていたと思われます。

──食料の保存はどのようにして行われていたんでしょう?

山田 狩猟採集民の縄文人にとって、動物や食料の中心だった木の実などが、春から初夏にかけてはほとんど獲れなくなってしまうため、食べ物の保存は最重要事項でした。集めた食料は、鮮度の高いうちに食べられたはずですが、多くの食料はいろいろな形で加工され保存されました。ドングリなどの堅果類は、地面に穴を掘ってつくった貯蔵穴に入れたり、あるいはカゴなどに入れて住居の中につくられた棚の上に置いたりして保存したんです。

 西日本では、小川の側など地下水位の高いところに貯蔵穴をつくり、わざと堅果類を水漬けにしていたところもあります。これはおそらく、実についている虫を殺したり、水溶性のアクを少しでも除去するためのものであったと思われます。

 ハマグリなどの貝類は、いったん煮てから干し貝などの加工食品にしていたようですし、一度に大量に穫ることができるサケやマスなどの魚類や、シカ、イノシシなどの肉類の多くは、干し魚や干し肉、燻製(くんせい)といった形で保存食品にし、住居の中、もしくは高床式の倉庫で保管していたようです

 このように、縄文時代の人々は、穫れた食べ物をその日のうちに食べ尽くしてしまうような「その日暮らし」の生活をしていたのではなく、採取した食料を一年を通して食べ続けられるように、さまざまな工夫を凝らして保存し、計画的に消費していたわけです。

物流ネットワークを構築し、遠隔地交易を行う

──縄文時代の社会構造とは、どのようなものだったんでしょうか。

山田 縄文時代の人々は、ヒスイやコハク、コクヨウセキやアスファルトなど、産出地が限定されている有用な物資を遠くに運んでいく遠隔地交易を行うだけでなく、加工された干し貝や干し魚、塩などを内陸部に運び、物資を交換していたことが分かっています。なぜ、このようなことができたのかというと、集落間に張り巡らされた高度な物流ネットワークがあったからと推定されます。

 縄文時代の社会は、集落間におけるネットワークで支えられていたわけで、ネットワークを新規に構築したり、維持したりするために利用されていたのが結婚という社会制度でした。結婚によって他の集団との関係を開拓したり、維持したりするためには、結婚相手を自分が帰属する集団以外から求める外婚制という婚姻制度であるのが普通で、縄文時代の人々は、このような婚姻関係を周辺、あるいは遠隔地の集団・集落と取り結ぶことでネットワークを強化していたと考えられます。

──なかなか緻密な構造を持つ社会だったんですね。

悠久の歴史を経てきた縄文時代の土器のかけらを手に

悠久の歴史を経てきた縄文時代の土器のかけらを手に

山田 ええ。人口が絶対的に少ない縄文時代においては、人材の有無が直接、集団・集落の盛衰に関わるため、結婚後に夫婦が夫と妻のどちらの集落に住むのかが、非常に大きな意味を持っていました。夫方(おっとがた)の集落に住むことを夫方居住婚、その逆を妻方居住婚といい、前者の場合は父系的な社会を、後者の場合は母系的な社会を営んでいることが多いんです。

 私は縄文時代の当初から前期くらいのまでの時期には、母系的な社会が存在し、これを基礎として中期以降には、父系的ないしは選択的居住婚による双系的な社会が営まれていた地域もあったと考えています。このような母系社会から父系社会への移行は、19世紀以来の歴史学で長らく検討されてきたテーマで、現在においてもなお重要な研究課題だと思います。

貝塚は、役割を終えたものをあの世に送る神聖な場所

──縄文時代というとすぐ思い浮かぶのが貝塚ですが、この貝塚はどんな役割を持っていたんでしょうか。

山田 貝塚は、日本全国各地に約2400カ所以上あると言われていて、多くの貝塚からは、身を食べ終えた貝殻や動物の骨以外にも、壊れた縄文土器や石器、骨角器などの日常生活で役割を終えたさまざまなものが出土しています。貝塚=要らなくなったものを捨てるごみ捨て場という印象が強いんですが、貝塚から人骨が出土していることから、別の役目があったという説もあります。

inoti138_rupo_10 縄文人は、死者が出ると丁寧に埋葬していたことが分かっているので、貝塚から人骨が出るということは、敢えて貝塚に墓をつくったと考えられるわけです。1877年(明治10年)に大森貝塚を発見したアメリカの動物学者モースは、大森貝塚から人骨が出土したことに触れ、石器時代人(縄文人)は人を食べ、その骨を貝塚に捨てていたというセンセーショナルな説を発表していますが、別の説もあります。

 それは、アイヌの人々の間にあった「送り場」という風習のことで、それと類似した考え方が縄文時代にもあったのではないかと考えられます。つまり、この世での役割を終えたあらゆるものを集めてあの世に送り、再びこの世に帰ってくることを願った神聖な場所が貝塚だったというんです。

──なるほど。

山田 その証拠に、土器が置かれ、人間や動物の骨が集められて祭祀(さいし)を行ったと思われる場が貝塚から検出されることがありますし、石棒や土偶などの呪術具が出土することも多くあります。貝塚が単なるごみ捨て場であれば、そこに死体を葬ったり、貝や動物の骨をきちんと整理したり、呪術具が出土したりするのは不自然であることからすると、縄文人はものを大切にし、役割を終えたものに対して特別な思いを持って、その種類に関係なく再生を願ったのだと考えられます。

 ですから貝塚は、単なるごみ捨て場などではなく、役割を終えたもの、寿命が尽きたものを集めてあの世に送るための神聖な場所だったと言えるのではないかと思います。 

縄文時代・縄文文化は私たちの今の社会の初原型

──縄文人は、サスティナブル(環境を破壊することなく維持・持続できる)でエコロジカルな考えを持ち、自然と共生していたと評価する向きもあります。それについてどう考えられますか。

山田 そうした評価は、自然との付き合い方が非常にうまかった縄文人の一面を照らすものかもしれません。しかし、少ない人口下で定住生活を行い、食料のほぼ100パーセントを自然の恵みに依存していた縄文人には、そもそも自然と共生する以外の選択肢はなかったわけです。そう考えると、「自然と共生する」という発想自体が、きわめて現代的なもので、縄文人とは、必ずしも現代的な意味においてサスティナブルで、エコロジカルな思考を持った人々ではありませんでした。

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 定住生活が進展するに従って、縄文人は必要に応じて森を切り拓き、焼き払い、そして有用な植物を管理して自分たちに都合のよい二次的な自然環境をつくり出していたわけで、そのような人間本位の自然開発のあり方は、本質的には現代と変わりません。特に、縄文時代晩期末に大陸から伝わったとされる農耕社会への参入を始まりとして、人間による自然支配が加速していきます。

 そういう意味では、縄文文化というのは、私たちの今の社会の初原型と言うことができるわけですが、ただ、ごく少ない人口下で、石器によって人力で自然を切り拓いていたがために、人々の自然改変・開発の度合いよりも、自然の回復力の方が勝っていたということなんです。縄文時代から学ぶことがあるとするなら、そういうことではないかと思います。

──縄文人と私たちには、何か繋がりがあるんでしょうか。

山田 DNAの分析では、私たち現代日本人の遺伝子の中には、縄文人から伝わったものが(本土日本人の核DNAで12パーセントほど)存在していることが分かっています。またそれだけでなく、先ほども言いましたように、この世での役割を終えたあらゆるものをあの世に送り、再びこの世に帰ってくるのを願う死生観なども私たちに受け継がれていることを考えると、縄文人は今も私たちの中に生きている、と言っていいと思います。2021年6月4日、インターネット通信により取材)