昭和38年から炭鉱で働くようになった私は、組合青年部の行事で知り合った6歳年下の女性と、昭和44年に結婚しました。翌年には長男を授かり、妻は育児と家事に精を出し、私は一家を構えた責任を感じて仕事に励みました。

 夫婦仲も悪くありませんでしたが、一つだけ、お互いに不満がありました。私は自分が信仰している生長の家を妻が受け入れてくれないこと、妻は私から生長の家を勧められることで、そうした不満が長く続きました。

夫婦が互いに不満を抱えて

 私に生長の家を伝えてくれたのは、両親でした。両親は私の妹がどこかから持ち帰った『白鳩』(*1)誌を読み、そこに書かれていた「人間は完全円満な神の子である」という教えに感動して入信したのです。

 当時私は小学校6年生でしたが、両親の喧嘩がピタリとなくなり、不思議に思ったのを覚えています。私や他のきょうだいに対しても、「おまえたちは素晴らしい神の子だ」と言って褒めてくれるようになったので、本当に驚きました。

 中学校を卒業してから父と同じ炭鉱で働き始めたのですが、中卒で、しかも体が汚れる仕事をしているのが恥ずかしく、劣等感を持つようになりました。そんなとき、父が持ってきてくれた『生命の實相』(生長の家創始者・谷口雅春著、全40巻。日本教文社刊)を読み、「人間は無限の力を持っている素晴らしい神の子だ」と知って、劣等感を克服することができました。

 20歳の時には、地元で生長の家青年会(*2)を立ち上げ、しばらくして2代目の委員長となり、誌友会(*3)や見真会(*4)の開催にあたっては、対象者宅を訪ねて参加を呼びかけました。仕事が終わった後にこうした活動をするため、帰宅はいつも深夜になりました。しかし、誌友会や見真会に参加してくれた人たちが、明るい笑顔で帰って行く姿を見ると嬉しくなり、疲れも吹き飛びました。

 その頃、結婚することになっていた現在の妻を生長の家の行事に誘うと、一度義理で参加してくれただけで、何の興味も示してくれませんでした。いつか必ず振り向いてくれるようになると思って結婚したものの、まったくだめでした。しかし妻は、私が信仰することについては黙認してくれたため、それをいいことに、長男が生まれて妻が育児に追われるようになっても家事を手伝わず、青年会の活動を優先させていました。

 妻は我慢強い性格で、決して愚痴を言ったりしませんでしたが、いくら誘っても生長の家の集まりに参加しないことが、私への不満を物語っていました。私も妻もお互いに言いたいことがあるのに、それ以上踏み込まないまま暮らしていたのです。

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家のことを妻任せにして


 昭和48年、31歳の時に、炭鉱を辞めて大手タイヤメーカーに転職しました。炭鉱の将来が見えないことと、落盤事故が相次いでいたので見切りをつけたのです。

 営業マンとなった私は、全国各地の支社に赴任し、行く先々でトップクラスの成績を挙げるようになりました。しかし、それ以上に力を注いだのが、人に生長の家の教えを伝える活動でした。青年会はもちろんのこと、40歳を過ぎてからは相愛会(*5)に移行し、地方講師(*6)にもなって、1カ月に5回以上も誌友会に出講するようになりました。

 すると、家のことはほとんど妻任せになり、妻の不満は膨らむ一方でした。

妻の快癒を祈って行に励む


 そんな妻が子宮がんを発症したのは、平成18年のことでした。近所に住む長女がたまたま家に立ち寄った時、床に倒れている妻を発見し、車に乗せて近くの総合病院に直行しました。電話で知らせを聞いた私も病院に駆けつけ、診察に立ち会いました。

 検査の結果、医師から告げられたのは、「末期の子宮がんで、すでに全身に転移しており、手術をしても余命は長くて3年です」という絶望的な答えでした。「なぜもっと早く病院に来なかったのですか」と医師から問われた妻は、泣き崩れていました。

 私はその時とっさに、我慢強い妻に甘え、家庭を顧みずにいたことがこんな結果を招いたんだと思い、妻が不憫で涙がこぼれました。そして何としても妻を助けたいと思わずにはいられませんでした。

 それからは、聖経『甘露の法雨』(*7)を読誦し、真剣に神想観(*8)を実修して、妻の快癒を祈るようになりました。3時間に及んだ子宮全摘手術の間も、仏壇の前で繰り返し聖経を読みました。すると手術は成功したものの、既にリンパ節に転移していて、あとは手がつけられないという状態でした。

 私は妻の病気を治そうと、一層必死になって神想観をし、病室を見舞っては聖経を誦げました。けれども、そんな私を見ても妻は生長の家には無関心でした。

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全てを神様にお任せしよう


 ある日、いつものように朝起きて神想観を実修し、妻の回復を祈っていた時のこと、突然、「妻は神の子で永遠生き通しのいのちなんだ。病気が治っても治らなくても、この世にいても霊界に移行しても、私の大切な妻であることに変わりはない」と思えたのです。

 気持ちがすっかり楽になると同時に、心の中に巣くっていた「妻を信仰に振り向かせたい」という思いも消えていました。「そんなことはもうどうでもいい。全てを神にお任せし、妻をひたすら礼拝しよう」と心の底から思ったのです。

 すると不思議なことに、妻に少しずつ変化が見え始めました。知人が妻の快癒を祈り、聖経の言葉を書き写してくれたサラシを妻に渡すと、嬉しそうに受け取っただけでなく、いつも大切そうにお腹の上に掛けて過ごすようになったのです。  

 もっと驚いたのは、妻の口から医師や看護師、同室の人たちへ、事あるごとに感謝の言葉が出るようになったことです。まるで生長の家の信徒のようで、私は感動を覚えずにはいられませんでした。

 2カ月して退院し、その後は定期的に通院して放射線治療や検査を受けるようになりました。妻は回復に向けて意欲を示し、以前にもまして積極的に家事をこなし始めました。それにつれて食欲も出てきて、顔色もよくなっていきました。

 こんなことがあるんだと驚きながらも神様のお導きを感じた私は、一層感謝の思いを込めて、神想観の実修と聖経読誦に励みました。

神様が癒してくださった!


 退院して半年後、医師から「この検査でがん細胞が発見されなければ、がんは完全に消え、治ったと言うことができます」と説明されて検査に臨むと、その結果、医師の言葉通りのことが実現したのです。医師も驚き、妻も涙を流して喜んでいました。私も「ああ、神様が癒してくださったんだ」と心の底から嬉しさが込みあげました。

 私はこの体験を通して、お互いが持っていた不満も解消し、「人はそのままで尊い神の子なんだ」ということを教えられました。

 それから15年の歳月が流れました。妻は今も元気そのもので、毎日楽しく家事をこなしています。私は70歳を過ぎた今も、駐車場の管理人として働く傍ら、地方講師として誌友会などに出講しており、そんな私を妻は陰になり日向になって支えてくれています。

*1=本誌の姉妹誌
*2=12歳以上39歳未満の生長の家の青年男女の組織
*3=生長の家の教えを学ぶつどい
*4=教えを学ぶ小集会
*5=生長の家の男性の組織
*6=生長の家の教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*7=生長の家のお経のひとつ。現在、品切れ中
*8=生長の家独得の座禅的瞑想法