川原りつ子さん (70歳) 鹿児島市 桜島を背に。「一家で何度も転居したのが今では懐かしい思い出です」 取材/水上有二(本誌) 撮影/近藤陽介

川原りつ子さん (70歳) 鹿児島市
桜島を背に。「一家で何度も転居したのが今では懐かしい思い出です」
取材/水上有二(本誌) 撮影/近藤陽介

 川原りつ子さんの長女が両親に反抗するようになったのは、中学を卒業した春、鹿児島市から離島の奄美大島へ転居して間もない頃だった。

 長女は高校に入学したものの、早々に登校を嫌がるようになった。クラスメートから「内地の人」と呼ばれ、他のクラスからも「内地から来た子がいる」と、珍しそうに眺めに来る生徒がいることに傷つき、連日「さらしもの」のように人から見られるのは、とても苦痛だと話した。

 川原さんの夫は、定年を迎えるまで公立小学校の教員を務めていた。在職中は転勤があったため、川原さんは、長女と次女の2人の子を連れて県内を何度も転居した。長女は小・中学生の時に6回転校しているが、いつも嫌がっていた。だが、両親が教員だった川原さんは、「教員の家庭に引っ越しはつきもので、子どもは親についていくのが当然」という思いがあり、長女の気持ちを深く思いやることはなかった。

良い子でいることに疲れて

 不登校になった長女は、ある朝、泣きながら、「お母さん、良い子でいるのがきつい」と、今までの鬱積を吐き出すように叫んだ。川原さんは驚き、「良い子でいるって、どういうこと?」と聞くと、「お母さんが言う通りにしてあげると喜ぶから、お母さんが言うようにしてきた。でも、もう疲れた」と長女は言った。

「人生に無駄なことはないと、娘の不登校を前向きに受けとめています」

「人生に無駄なことはないと、娘の不登校を前向きに受けとめています」

「親の言うことを何でも聞く子だったんです。周囲からも『どう育てたら、あんな良い子に育つの』と言われるほど、自慢の娘でした。行儀や言葉づかいなどにも目を配り、誰の前でも恥ずかしくないように育ててきたつもりでしたが、娘のためを思ってしたことが精神的な負担になっていたと知り、うろたえるしかありませんでした」

 教育者の夫に迷惑がかかることだけはしてほしくない、という川原さんの思いとは裏腹に、長女はその後、頭を金髪に染め、夜遅くまで外出するようになった。夫は娘を長い目で見守ろうと考えて不登校を責めなかったが、川原さんは早く娘に改心してもらいたいと、ただ焦るばかりだった。

 学校や公共機関で教育相談を受け、遠方の鹿児島市内まで足を運んだこともあったが、解決になりそうなアドバイスはもらえなかった。心療内科に相談しても、「娘さんの年齢では人格ができ上がっているから、親にできるのは、本人がしたいと思うことをサポートすることだけです」と言われ、落ち込んで帰ってきた。

「長女の人生をダメにしてしまったという自責の念で、死ぬことしか考えていませんでした。そんな私の気配を感じたのか、主人も次女も心配し、小学3年生だった次女は、私が夕方、家にいないと、血相を変えて捜し回ったり、泣いている私を、『泣かないで、スマイルだよ』と励ましてくれました」

 子育てへの自信をすっかり失った川原さんは、「娘は神様から授かった子だから、神様なら救ってくれるかもしれない」と思い直し、かつて出合った「生長の家」に一縷の望みを託した。

不妊で悩んだ末に授かった子

 生長の家と出合ったのは、不妊で悩んでいた30歳の頃だった。体調を崩して不妊治療を止め、子どもを授かることは諦めかけていたとき、訪ねてきた叔母から一枚の写真を渡された。それは、生長の家宇治別格本山(*1)の境内にある慈母観世音菩薩像の写真だった。その写真の前で毎日時間を決めて『甘露の法雨(*2)』を誦げることと、鹿児島県教化部(*3)で毎月行われている先祖供養祭に参加することを強く勧められたのだ。

慈母観世音菩薩像の写真にお茶を供える。「娘を授かった時の感謝の思いをいつまでも大切にしたい」と川原さんは語る

慈母観世音菩薩像の写真にお茶を供える。「娘を授かった時の感謝の思いをいつまでも大切にしたい」と川原さんは語る

「そんなことで子どもが授かるのかと半信半疑でした。でも、1年ほど続けたところ、妊娠していることが分かり、奇跡が起きたと感激しました」

 結婚8年目にして長女を出産し、その6年後には次女にも恵まれた。「子どもを神様から授かった」という感謝の思いで、毎朝、慈母観世音菩薩像の写真にお茶を供えていたが、長女の出産後は聖経(*4)を誦げることはなくなり、先祖供養祭に出向くこともなくなった。

 高校生の長女の不登校をきっかけに生長の家を思い出した川原さんは、教化部長(*5)の指導を受けた。

「教化部長は『子どもが悪いんじゃない、あなたの勉強なんです。あなたの愛を引き出すために、娘さんがそういう姿を見せているんですよ』と教えて下さいました。当時の私は、その意味がよく理解できなかったのですが、生長の家にかけてみようという心境になっていました」

「放つ心」になった時、肩の力が抜けた

 奄美大島に移って半年が過ぎた秋、川原さんは夫を残し、2人の娘のために住み慣れた鹿児島市に戻ることにした。すると長女は、高校を再受験する意欲を見せ、翌春、私立高校に入学することができた。しかし1年遅れで入学したという劣等感から、同級生と打ち解けられず、入学して間もなくまた不登校になってしまった。

 長女は夕方になるとどこかへ出かけ、夜遅くに帰ってくるようになった。川原さんは叔母に泣きながら相談すると、「なんも心配はいらんよ。生長の家の教えがあるから」と言って励まされ、川原さんを講演会や誌友会(*6)などに連れて行ってくれた。

「どの講師からも、神想観(*7)の実修と聖経読誦を勧められるので、やってみたんですが、娘の現象的な姿ばかりが心に浮かんできて祈りに集中できず、聖経を開いても文字を追うだけで理解できませんでした。私はやむなく仏壇の前で『有り難うございます』と、毎日、繰り返し唱えていました」

 長女を「神の子」と信じて小言を言わないようにしても、学校に行かずに外出する姿を見ると、心で裁いてしまった。その思いが顔に表れていたのか、長女から返ってくる言葉は、「なんか言いたいことがあるんじゃない?」の一言だった。しかし「有り難うございます」と唱え続ける中で、挫けそうになった時、生長の家で学んだ「何も求めず、ただ愛せよ」という言葉が、川原さんの心を支えてくれた。

「『学校に行かなくても、元気で生きている。それ以上のことはない』と思えた時、生まれた時の感動や、スクスク育ってくれた時の喜び、たくさんの幸せがあったことが心に甦りました」

 親の都合のいいように長女を変えるのではなく、神様に全托しようと「放つ心」になったら、ふっと肩の力が抜けた。それからは、長女が外出する時や帰ってきた時には、何も詮索せず、「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」と声をかけられるようになった。

神の子は、神様が育てて下さると信じて

 夜に長女が不在の時も、陰膳のつもりで食事を欠かさず用意していたある日、家に帰ってきた長女が「お母さん、食べていい?」と言った。何気ない一言だったが、それまで親子の会話が途絶えていただけに、川原さんはとても嬉しく感じた。そのことがあってから、長女の態度は柔らかくなり、自然と話しかけてくるようになった。

 その後、長女は高校を中退し、20歳の時に妊娠、結婚、そして1年半後に離婚と、さまざまな出来事があった。長女への心配の思いは尽きなかったが、そのたびに「何も求めず、ただ愛せよ」という言葉を自分に言い聞かせ、娘を信じ続けた。

 シングルマザーとなった長女は、コンビニや百貨店などで働き始めた。さらに「親の頑張る姿を、わが子に見せたい」と、28歳で通信制の高校に入学。医療事務の資格も取るなどして、前向きな人生を歩み始めた。そして5年前に再婚し、今は幸せな家庭を築いている。

 母親思いの次女も、結婚して2児に恵まれ、現在、川原さんと同居している。川原さんの夫は、2年前からパーキンソン病を患い、療養生活を送っているが、長女は車で2時間ほどかけて頻繁に世話をしに来てくれるという。

「親に迷惑を掛けたと、長女は今も悔やんでいるようですが、『あなたは私を、魂の勉強のために信仰へ導き、川原家を救ってくれたんだよ』と言葉をかけています」

 長女のことを案じ、何度も涙を流してきたという川原さんは、

「神の子は、心配しなくても神様が育てて下さるんですね」

 と、今は安心しきったように語る。「神様から授かった神の子」という母親の感謝の思いは、これからも娘の心を支え続けるに違いない。

*1 京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*2 生長の家のお経のひとつ。現在品切れ中
*3 生長の家の布教・伝道の拠点
*4 生長の家のお経の総称
*5 生長の家の各教区の責任者
*6 教えを学ぶつどい
*7 生長の家独得の座禅的瞑想法