私が生長の家の教えを知ったのは昭和50年、21歳で結婚したときに、主人の母から『白鳩』誌をいただいたのがきっかけでした。自らの病気を教えを支えに乗り越えた義母は、私を実の娘のように思い、生長の家のことを様々な体験を交えながら教えてくれました。信仰心のなかった私が義母から学び、今も覚えている言葉があります。

「喜べば喜びごとが喜んで喜び集めて喜びにくる」

 今思うと、日時計が太陽の時刻のみを記すように、物事の明るい面に心を向ける「日時計主義」の生き方が、この言葉に凝縮されていると感じます。

イラスト/せのおりか

イラスト/せのおりか

 4人兄弟の四男である主人の長兄が東京の大学に進学した時、義母は上京して賄い付きの下宿探しをしたそうです。それがきっかけで、地方から来られる学生のための下宿業をはじめ、仕事に愛情と責任を持って携わっていました。いつも母親のように明るく学生に接し、常に栄養を考えて食事も作っていました。

 私が初めて出産するとき、予定日を2週間過ぎても気配がなく、陣痛促進剤で出産することになりました。義母が『甘露の法雨』(*1)で私のお腹をさすりながら安産を祈ってくれ、そのお陰で入院の前日に陣痛が始まり、無事男の子を授かりました。

 私の信仰が善なる神様に全托するほど深まっていなかった10年前、当時60歳だった主人が脳梗塞で入院しました。幸い後遺症はなかったものの会社に退職を勧められ、転勤先から自宅に戻ることになりました。経済的には不安で一杯の中、私は神様にすべてをお任せする心で、誌友会(*2)や練成会(*3)、組織のお手伝いなどをしているうち、すべてが整っていきました。

 じつは自宅と同じ敷地に、長兄が継いでいた本家がありました。私たちが郷里に戻ると、長兄から「千葉県を当分離れられないため、本家に移って仏壇を守ってほしい」と言われたのです。しかもリフォームもしてくれたので、私は広々とした新しい家で、誌友会を開けるようになりました。

 さらには、離婚して一時同居していた長男に素晴らしいお嫁さんが来てくれ、男の子も授かり、本誌の「わが家の赤ちゃん」に掲載させていただく等たくさんのお陰を得ました。

 これからは、ただ神様にご恩返しをしたいという思いで、微力ながら令和元年という節目の年に、地域の白鳩会のお役を受けさせていただきました。主人が病で倒れる前の私は、まったくの御利益信仰で、何かお世話になったら感謝する程度でした。でも、白鳩会のお役をするうち、協力して下さる皆さまの姿がただありがたく、自分の幸福だけでなく人の幸福を祈れるようになり、これまで見過ごしてきた人や物や事にも感謝できるようになりました。

 苦手なことがたくさんある中で、いつも私を勇気づけてくれる『續々甘露の法雨』(*4)の大好きな言葉があります。

「汝ら百尺竿頭より一歩跳ぶべし。/更に空中に遊歩すべし。/空中遊歩の神人とは/汝らの「生命」の実相なり。/実相(*5)のほかに真の汝なし」

 真理の言葉を糧に、生長の家の伝道に力を尽くしていきたいと思います。

K.F.(生長の家地方講師)
幼い頃から日舞や、バレエを習う。「今は社交ダンスで運動不足を解消しています」

*1 生長の家のお経のひとつ
*2 教えを学ぶつどい
*3 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*4 生長の家のお経のひとつ
*5 神によって創られたままの完全円満なすがた