相澤俊弘(あいざわ・としひろ)さん 宮城県名取市・26歳・団体職員 取材●長谷部匡彦(本誌)撮影●遠藤昭彦

相澤俊弘(あいざわ・としひろ)さん
宮城県名取市・26歳・団体職員
取材●長谷部匡彦(本誌)撮影●遠藤昭彦

 生長の家宮城県教化部(*1)で、会計業務と機関紙編集に携わる相澤俊弘さんは、小学生の頃から学校を休みがちだった。高校1年のときに遭遇した東日本大震災の後、家に引きこもるようになり、そんな自分を責め続けた。だが、誘われて参加したボランティアが、立ち直るきっかけを与えてくれた。

 相澤さんは、昨年(2020)4月に生長の家宮城県教化部に就職する以前の、平成25年10月から約7年間、教化部でボランティアとして機関紙の原稿の入力作業や印刷の手伝いをしていた。さらに平成28年10月からは、生長の家宮城教区青年会(*2)の事務局長として、事務作業なども行うようになった。

「毎月、信徒の皆さんの心のこもった原稿をパソコンに入力し、教区の方々に届ける作業を手伝えるのは嬉しいことです。教化部で、そうしたボランティアを始めたのは、学生時代、引きこもりがちだった自分が人のお役に立つことで、変われるきっかけを得られるかもしれないと思ったからなんです」

自分を責める

 相澤さんは小学生の頃から、人前に出て自分に視線が集まることや、人が多く集まる場所にいることが苦手だった。学校での点呼の際、苗字の関係で最初に呼ばれたり、何かの行事で壇上に登ったりするだけでとても緊張した。

 小学6年生の時に体調不良で休んでから、とくに理由があったわけではないが、しばらく学校へ行けなくなった。中学1年生の時も一時期不登校となったが、そのときは、近所に住む1学年上の先輩のサポートもあり、中学2年生の5月から登校できるようになった。高校に進学後も、平成23年3月11日に東日本大震災が起きるまでは、普通に登校できていた。

hidokei132_rupo_2「高校1年生の3月のことでした。その日、授業が午前中で終わって家でのんびり過ごしていたら、午後2時46分に突然大きな横揺れに見舞われて、2、3分は揺れ続けていたのを覚えています。海に面している名取市の閖上(ゆりあげ)地区に住んでいたので、母はすぐに避難することを決め、同居していた祖父母を母の運転する車に急いで乗せて道路に出ました。でも、主要な道は避難する車ですでに渋滞していて、田んぼの間の農道を通り抜け、なんとか内陸部のスーパーの駐車場に行くことができました。そこで仙台空港が津波で浸水したことを知り、自宅の床上浸水も覚悟しました」

 地震発生から約1週間後、自宅の様子を見に戻ろうとしたが、自宅があった閖上地区よりもずっと手前から、ほとんどの建物が津波で流され、辺りには瓦礫(がれき)の山しか残っていなかった。さらに、行方不明者を捜索する光景を目の当たりにし、自宅を見に行く気力が無くなった。後日、両親が閖上地区に戻ったが、一帯は土台しか残っておらず、自宅がどこにあったかさえ分からなかった。

「幸い震災から1カ月後、両親と祖父母の5人で、仮設住宅に入居することができました。でも、震災を経験したショックで精神的に疲れやすくなり、動けなくなってしまったんです」

 やがて昼夜逆転の生活をするようになり、学校が再開しても、朝起きることができなくなった。そのことで自分を責めつづけ、どんどん泥沼にはまっていった。

ボランティアで心に光が差し込む

 そんな相澤さんを心配した母親が、以前から信仰していた生長の家の宮城県教化部に相談し、教化部職員の三浦光宏さん(当時。現在生長の家国際本部勤務)と、青年会委員長「の齋藤貴之さん(当時)が、月に一度、相澤さんと話をするために仮設住宅を訪れてくれるようになった。

「徐々に話ができるようになって、6月に行われる神社清掃のボランティアに誘っていただいたんです。少しでも自分を変えたいという思いがあり、参加することに決めました」 

仕事場近くの公園にて。「自宅から仕事場まで、自転車で通勤しています。たまに公園でのんびりするのも気持ちいいですね」

仕事場近くの公園にて。「自宅から仕事場まで、自転車で通勤しています。たまに公園でのんびりするのも気持ちいいですね」

 神社清掃と言っても、実際は瓦礫の撤去作業だった。だが、いったん作業を始めると夢中になり、その間だけは自分を責めることから解放された。さらに、一緒に作業をした人々の明るい笑顔を見ると、不思議と心が惹かれ、その後、誌友会(*3)や青少年練成会(*4)にも参加するうちに、心に活力を感じるようになった。

「それから、すぐに学校に登校できたわけではありませんでした。『このままではいけない、明日は必ず学校に行こう』と思っていても、朝起きられないことが続きました。でも、11月頃から起きられるようになり、高校2年の12月からは、震災による精神的ショックで、授業を受けられなくなった生徒のための教室へ登校できるようになりました。父が頑張って新しい家を購入してくれたり、両親が以前と変わらず自然体で自分に接してくれたりしたことも、ありがたかったです」

 平成25年に高校を卒業後は、心機一転して仙台市にある専門学校に進学した。しかし、人に対して恐怖感を感じるようになり、1カ月後には通学できなくなった。

「その年の10月、頼まれて生長の家の講習会の運営を手伝ったときに、担当の人同士で何かをするたびに『ありがとうございます』と唱えていたら、気持ちが明るくなっていきました。それで宮城県教化部を訪れて、ボランティアをさせてもらえるようにお願いをしたんです。結局、専門学校は1年で辞めることにしました」

全てに感謝し行動すること

 教化部でボランティアをしながら、生長の家の教えを学ぶようになったある日のこと、祈りについて書かれた『聖経 真理の吟唱』(生長の家創始者・谷口雅春著。日本教文社刊)の中にある「至福無限を喚び出す祈り」の一節が心に留まった。

神社清掃のボランティアをする相澤さん(画像提供:三浦光宏さん)

神社清掃のボランティアをする相澤さん(画像提供:三浦光宏さん)

「生長の家では、『人間は神の子で、神の自己実現として神の愛を表現する存在』と説いています。この祈りには、『「できない」のは「できない」のではない、「しない」のである』と書かれていて、まるで自分のことを言われているように感じたんです。以前の自分は、人からたくさんの愛をもらっていたのに、自分から愛を表現してこなかったことに気づきました」

 平成29年からは、他の青年会の仲間と共に、宮城県や岩手県の沿岸部に植樹を行う「鎮守の森のプロジェクト」のイベントにも参加するようになったという相澤さんは、笑顔でこう話した。

「植樹は、将来起こりうる津波の被害を軽減させると同時に、地球温暖化の緩和にも繋がります。イベントに参加して、未来を生きる人たちのために役立つことができたと、自分を認めることができたんです。ボランティアを通して愛を表現することで、人生が変わりました。自分のできることから、人や自然に対して愛を表現し、それによって喜びを感じるところに、自分が生まれた意味もあると思います」

*1 生長の家の布教・伝道の拠点
*2 12歳から39歳までの生長の家の青年の組織
*3 教えを学ぶつどい
*4 合宿して教えを学び、実践するつどい