森田芳伯(ほうはく)さん│70歳│高知市 陶芸教室の生徒が作った花瓶を手直しする森田さん。熟練の業が冴える(高知城のそばにある城西公園にて) 取材/佐柄全一 写真/髙木あゆみ

森田芳伯(ほうはく)さん│70歳│高知市
陶芸教室の生徒が作った花瓶を手直しする森田さん。熟練の業が冴える(高知城のそばにある城西公園にて)
取材/佐柄全一 写真/髙木あゆみ

 土佐藩主の山内忠義が大阪の陶工を招き、1653年に高知城近くの尾戸(おど)に窯を開いたとされる尾戸焼。中でも、端正で薄作り、淡色の地肌に藍色の呉須(ごす)(顔料)で、松竹梅や草木、山水などが繊細なタッチで絵づけされた茶陶(ちゃとう)は、多くの茶人に愛好されてきた。

土を練るのも簡単なことではなく、何カ月も練習して、ようやく身につくという

土を練るのも簡単なことではなく、何カ月も練習して、ようやく身につくという

 現在、高知市内には尾戸焼の伝統を継ぐ窯元が3カ所ある。その一つの当主が森田芳伯さんで、生家は尾戸焼の本家筋にあたるという。

「尾戸焼は、陶磁器の釉(うわぐすり)の表面に、細かい割れ目のようなひびが入る貫入(かんにゅう)が特徴の白上がりの陶器で、独特の味わいを持っています。こうした技術を生み出したご先祖様には、本当に頭が下がる思いです」

 そう語る森田さんは、伝統を守りながら茶道に用いられる茶陶などの制作に励み、高知県美術展覧会で何度も入選。高知市や東京で個展を開催してきた他、昨年(2019)には高知県のいの町紙の博物館で、「森田芳伯 作陶45周年展」を開いた。

「最高に嬉しかったのは、27歳のとき、真剣勝負の気持ちで県展に初出品し、初入選したときです。これがきっかけで、陶芸で生きていこうという自信が生まれました」

 森田家では、9代目の祖父まで尾戸焼の窯を受け継いでいたが、その祖父が失明し、跡継ぎの子も早世したことから断絶していた。父親は別の職業に就き、森田さんも高校卒業後、警察官になった。

「しかし、家族や親族から『尾戸焼を再興してほしい』と強く望まれたため、22歳のときに警察官を辞め、奈良県の陶芸専門学校に入りました。卒業して京都の著名な窯元で修業し、昭和52年、高知に戻って尾戸焼の窯を開いたんです」

 高知県美術展覧会で初入選した後、独自の技術を求め続け、29歳の頃、ある発見をした。窯で陶器を焼くとき、松を一緒に燃やすと窯変(ようへん)(*1)によって、陶器に花びらのような淡いピンクの模様が浮かび上がることに気づいたのだ。

「こうしたことは、人間の力ではなく、まさに神がなせる業。生長の家の教えを知ってから、一層その思いが深まりました」

 陶芸教室を開き、人に教えてもいる森田さんは、5年前、生徒の一人から生長の家を伝えられ、天地一切のものへの感謝を説く教えに感動。それから、誌友会(*2)や高知教区の練成会(*3)などに参加して教えを学んでいる。

「邪心があっては、良い作品は決して生まれません。神想観(*4)をし、心を浄めて、私にしかできない茶陶の制作に励んでいきたいですね」

 信仰篤い森田さんによって、さらに優れた尾戸焼の作品が生み出されていくに違いない。

尾戸焼の伝統を引き継ぐ森田さんが制作した、端正で薄作りの茶陶

尾戸焼の伝統を引き継ぐ森田さんが制作した、端正で薄作りの茶陶

*1=窯の中における特異な焼成変化のこと
*2=生長の家の教えを学ぶ小集会
*3=合宿形式で生長の家の教えを学び、実践するつどい
*4=生長の家独得の座禅的瞑想法