
大森靜子(おおもり・しずこ)さん (80歳) 横浜市旭区
取材/宮川由香 撮影/堀 隆弘
草木染めの魅力に魅せられる
座卓の上に並べられた、何色もの淡い色合いの草木染めの布。その一つひとつに「タマネギの皮」「桜の葉」「芒(すすき)」「赤紫蘇(しそ)」「山ぶどう」「にんじんの葉」「紅椿」など、染めた原料の札が丁寧に付けられている。
「桜の葉や枝はピンクじゃありませんでしょ。なのに煮出して染めると、淡いベージュの中にふんわりと桜色が現れるんです。桜は冬の間に色素をため込んで、春に一気に花の方に美しい色を出すんですね。不思議でしょう」
好奇心いっぱいのキラキラした瞳で、大森靜子さんはそう説明する。大森さんが草木染めを始めたのは、平成20年に義母を見送り、数年経った70代半ばの頃。
「継母や義母の遺品の着物を何かに生かしたいと思って、最初は小物や洋服にリメイクしたんです。すると、着物の白い裏地や端切(はぎ)れがたくさん残りますでしょ。それもなんとか生かしたいと考えていたら、玉ねぎの皮で布を染められると聞いたことを思い出し、やってみようと思ったんです」
しかし、具体的にどのようにしたらよいか分からなかったため、すぐに図書館に行き、やり方を調べた。

トップスは赤紫蘇のミョウバン媒染、パンツはセイタカアワダチソウの鉄媒染の布で縫い上げたもの。義母の着物の羽織をリメイクしたベストを合わせて、オシャレに着こなす
たとえば玉ねぎの皮は、染める布の重さの半分くらいの量を集め、ネットに入れて、布が十分に浸かる水で20分ほど鍋でグツグツ煮出して取り出す。染めむらをなくすために、白い布は水を通してから染液(せんえき)に入れ、ときどき菜箸でかき混ぜながら20分間染める。
「これで玉ねぎの皮に近い色の布ができます。色素を固定し、発色を良くするためには媒染(ばいせん)が必要と知り、ミョウバン大さじ2くらいを少量のお湯で溶かし、それを1リットルくらいのお水に入れてミョウバン媒染剤を作り、そこに染めた布を入れるんです。そして10分から20分くらい、菜箸でユラユラさせると、薄茶色だった布が、ふわーっと濃い黄色に変わるんですよ」
ミョウバンの他にも、鉄玉や鉄くぎ等と水と酢をすべて同量の割合で混ぜて、半分の量まで煮詰めた鉄媒染剤を使うと、濃いカーキ色に変化することも知った。
白い布が様々な色に変化していくことに、とても魅力を感じたという。それと同時に、先人の知恵に驚き、遠い昔の人たちと今、同じことをしていることに、心がときめいた。自然の恩恵だけで人々が暮らしていた時代、衣類には薬効のある植物で染め上げたものを身にまとうことで、「薬」の働きがあったことも知った。

裂織の作業の様子。最後の最後まで、ものの命を生かし切りたいという
「そのことにも興味を持ちましてね。草木染めの衣類を着ることは、ある意味薬を身に付けることなんですね」
弾んだ声で嬉しそうに語る大森さんを見ていると、幸せいっぱいの中で育ってきて、順風満帆な半生を歩んできた奥様のようで、壮絶な過去があったとは、とても信じられない。
幾多の苦難を乗り越えて
大森さんは横浜市で生まれ育った。1歳のときに実母が他界し、5歳からは継母に厳しく育てられ、少女時代はつらい出来事が続いた。中学生のときに急性肝炎を、高校1年生からは関節リウマチを患い、激痛に苦しむ青春時代を送った。継母への嫌悪感も膨らみ、早く離れたいと、昭和41年、26歳のとき結婚し茨城へ。

上:玉ねぎの皮は捨てずに草木染め用にとっておく。「八百屋さんも、とっておいて下さるんですよ」/下:台所で鍋を使って草木染めをする
一男一女に恵まれた結婚生活も、義父と夫が所有するゴルフ場の経営難で、債権者の取り立てに怯える日々。横浜市に転居してから、夫は仕事の重圧からアルコール依存症になり、大森さんも精神的に追い詰められる日々を過ごした。だが、夫婦で共に、ある修養団体で学んだことで、夫はアルコール依存症から立ち直ることができた。
健康を取り戻した夫は建設廃材処理の事業を立ち上げたものの、バブル崩壊のあおりを受けて経営は苦しく、先行きの見えない不安が続いた。そんな平成5年、大森さんは知人から東京・原宿にある生長の家本部(*1)を紹介された。
本部会館に一歩入った途端、懐かしい温かさを感じたという。そのときの講話で、「神が創造された世界は善一元の完全円満な世界ですから、すべては善くなるしかないんです」と聴き、にわかに信じがたかったが、心惹かれ、自分の居場所はここにあると直感的に思った。
その後まもなく神奈川県教化部(*2)の練成会(*3)にも参加し、長年の持病である関節リウマチと夫の事業のことなどを相談すると、「人間は神の子であり、実相は完全円満なのです。病は迷いの心が現れたものですから、本来無いんですよ」という言葉に、今まで得たことのない安らぎを覚え、心が軽くなった。そして練成会に通い続け、半年後には、痛くて雑巾も絞れず、鎮痛剤が手離せなかったリウマチが消えていた。
「もっとこの教えを学びたいと思いました。その頃継母は亡くなっていて、継母に優しくできなかった代わりに、施設にいた義母を引き取ってお世話しようという心境になったんです」
平成13年、夫が肝臓がんで逝き、上向き始めていた会社は倒産に追い込まれ、債権者の取り立てにノイローゼになりそうなときもあった。新築したマイホームを2年で手離し、平成15年、義母とともに、現在住む県営団地へ引っ越した。
自然によって生かされている
だが、引っ越して3年ほど経った頃、大森さんに大腸がんが見つかった。

「今、草木染めや自然の美しさに目を向けて、穏やかに過ごせることが嬉しいんです」。草木染めの端切れを、裂いてひも状にして織る裂織の生地から作ったポシェットと、手作りの雛人形
「ステージ3で手術を受けた後、体力が落ち、元気を取り戻したいと思って、団地の敷地内にある草木の手入れを始めたんです。草を刈り、枝を切り、土を起こし、種を植え、花畑作りを楽しむようになりました。土に触り、自然に触れていると夢中になれて、病気のことも忘れてしまうほどでした」
どんな所に落ちようとも、そこで芽を出し、根を張って光の方へ伸びていき、精いっぱい生命を輝かせて生きていく種のすばらしさに感動した。草木染めを始めたのは、その後2年ほど経った頃のことだった。
「四季を通して、自然はなんと豊かでやさしい色を私たちに与えてくださるんだろう、神様って、本当にすごいなっていつも感激していました」
大腸がんは克服し、今は、「人間・神の子」の教えと共に、あらゆる人、物、事、そして、自然に生かされていることに感謝しながら、満ち足りた日々を送っている。つらい過去を乗り越えてきたからこそ、自然に寄り添った現在の暮らしが一層有り難く感じられるという。
「もし、生長の家の教えがなかったら、私は生まれ育った環境を恨み、継母や夫を恨み、そんな自分の宿命を恨み続けた人生だったと思うんです。毎日、やりたいことがいっぱいありすぎて。今、糖尿病を抱えていますが、こんなに心軽く、楽しく、わくわくした気持ちで過ごせるのは、この教えにご縁をいただき、光り輝く道に導いていただいたおかげです」
*1 平成25年に山梨県北杜市の八ヶ岳南麓に移転
*2 生長の家の布教・伝道の拠点
*3 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*4 神によって創られたままの完全円満なすがた