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長年にわたる田んぼづくりの経験から、「人間も自然の一員であり、その一部であるという自然観を取り戻していくことが大切だと思います」と語る宇根さん(写真/髙木あゆみ)

宇根 豊さん
農学博士、元NPO農と自然の研究所代表理事。長崎県生まれ。1978年、福岡県農業改良普及員として、減農薬を提唱し、推進に努める。1989年、福岡県二丈町(現・糸島市)で農業に新規参入し、水田づくりを始める。2000年に福岡県庁を退職し、2001年、NPO農と自然の研究所を仲間と設立して代表理事となり、2011年まで活動。著書は、『日本人にとって自然とはなにか』(ちくまプリマ―新書)、『農本主義のすすめ』(ちくま新書)、『農は過去と未来をつなぐ』(岩波ジュニア新書)、『うねゆたかの田んぼの絵本』全5巻、『愛国心と愛郷心』(共に農文協)など多数。

自然には2つの見方がある

 
──『日本人にとって自然とはなにか』というご著書に、「自然には2つの見方がある」と書かれていて、大変興味を引かれました。

宇根 私たちが、「自然は好きですか」と聞かれて「好きです」と答える場合、自然に対する2つの見方があると思うんですね。1つは、自然の一部である生きものや風景が好きだという見方、もう1つは、そういう部分も含んだ自然そのもの、自然全体(総体)が好きだという見方です。

 ですから、「あなたは、なぜ自然が好きなんですか」と尋ねられたときには、それぞれ2つの答え方があって、1つは、より具体的で個人的な体験や思いに基づいた「夏の青空が好きだから」といった答え方であり、もう1つは、ごく一般的な自然というものについて、「自然の中にいると気持ちがいいから」といった答え方です。

 つまり、私たちは同じ現象に対して、その2つの見方の間を意識しないで自由自在に行ったり来たりしているんです。

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農作業の手を休め、持参した茣蓙に座って、辺りを眺める宇根さん。晴れた日には、遠くに福岡県糸島の海が見えるという(写真/髙木あゆみ)

──その2つの見方を、それぞれ「内からのまなざし」「外からのまなざし」と呼ぶわけですね。

宇根 そうですね。より具体的で個人的な感情や気持ちを表現する時の見方を「内からのまなざし」と言い、ごく一般的な自然そのものについて表現する時の見方、あるいは科学的な説明で用いられるような見方を「外からのまなざし」と私は呼んでいるんです。

「赤蜻蛉が好き」についての内からと外からのまなざし

 
──日本人は赤蜻蛉(とんぼ)*1が好きですが、赤蜻蛉がなぜ好きなのかについて、「内からのまなざし」と「外からのまなざし」で見ると、どうなりますか。
*1 宇根さんは、字に込められた言葉の意味を大切にしたいとカタカナではなく、生物や植物の名前を漢字で表記している

宇根 たとえば年配の百姓*2なら、ほとんどが「赤蜻蛉が好きだ」と答えると思いますが、「なぜ好きなんですか」という問いに、こんなふうに言うかもしれません。
*2 差別用語と捉えられるが、一方で百姓は、江戸時代からの誇り高い呼称であり、宇根さんはその伝統を大切にして自らを百姓と呼ぶ

「私が田んぼに入ると赤蜻蛉が集まってくるんだ。まるで自分を慕って寄って来るような気がして、可愛いと思うからかな」
これが「内からのまなざし」による答えです。

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刈り残った稲を手に(写真/髙木あゆみ)

 それが「外からのまなざし」による答えだと、
「百姓が田んぼに入ると、稲についていた虫が跳びはねるので、赤蜻蛉はその餌をめざとく見つけて、百姓のそばにくる」
となるんです。

 あるいは、
「赤蜻蛉は8月のお盆の前になると、急に増えてくる。あれは先祖の霊を乗せてやってきて、お盆が終わると、先祖の霊を乗せてあの世に帰って行くという言い伝えがあるくらいだから、赤蜻蛉はずっと昔から大切にされてきたんだ」

 というのは「内からのまなざし」による答えですが、それを「外からのまなざし」で見ると、

「赤蜻蛉がお盆の前に急に増えてくるのは、田植えした直後の田んぼに、産卵したものが水蠆(やご)になって一斉に羽化する時期が、たまたまお盆の前にあたっているから」
といった表現になるわけです。

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自然の声を聴きながら、稲は手で植えている(写真提供:宇根豊さん)

──「外からのまなざし」による説明は分かりやすいですが、個人的で内面的な思いに基づいた「内からのまなざし」の方が、話が生き生きとしていて共感できますね。

宇根 そうですよね。「外からのまなざし」も必要ではあるものの、「内からのまなざし」から語られる赤蜻蛉への思いの方が、その人の赤蜻蛉との様々な交流が体験として蓄積され、「赤蜻蛉が好きになった」という実感が伝わってきますね。

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「稲の立場になれば、いま、肥料をほしがっている、水をほしがっているということが分かるんです」(写真/髙木あゆみ)

お玉杓子が全滅して感じたお玉杓子への情愛

 
──ご著書に、お玉杓子(たまじゃくし)が全滅したときのエピソードが載っていて考えさせられました。

宇根 数年前、うっかり1枚の田んぼにだけ水が行き届かず、干上がってしまったことがあるんです。田植えしてまだ20日ぐらいしか経っていなかったので、お玉杓子が全部死んでしまったんですね。

 私は、「ごめんよ。悪かった」とお玉杓子に謝りました。そのことを百姓の友人に話すと、「私もそういう経験があるし、その時もごめんよという気持ちになった」というので、他の百姓仲間にアンケートを取ってみたんです。

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「うっかり田んぼの水が干上がって、お玉杓子が死んでしまったらどう思いますか」と尋ね、答えはわざと3択にしてみました。その答えが下の図ですが、予想していた通り、50歳以上の百姓のほとんどが「ごめん、悪かった」と答えました。

 そこで私は、「それでは、あなたたちはお玉杓子のために田んぼに水を溜めていたのですか」と尋ねると、全員が「そういうつもりはまったくない。田んぼに水を溜めるのは、稲がよく育つことと、草を抑えることを目的にしているのだ」と否定するんです。

「それならなぜお玉杓子に謝るのですか。可哀そうぐらいの気持ちで済ませればいいじゃないですか」と重ねて問うと、「そういうわけにはいかない」と反発するんです。

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田打ち車を使い、田んぼの中の雑草を丁寧に取り除く(写真提供:宇根豊さん)

──ほとんどの人が、お玉杓子を死なせたことに責任を感じて謝りたいと思うわけですね。

宇根 それは、生き物のいのちを大切にしたいという気持ちがあるからです。そして、田んぼの水を切らさないようにする目的の1つとしては自覚していなくても、無意識に「お玉杓子のためにも水を溜める」という気持ちになっていたからなんだと思います。

 ところが、経験が浅く、比較的若い百姓の同じ質問に対する回答を見ると、びっくりします。私は半ば冗談で「仕方がない。分解されて、良質の有機質肥料になればいい」「惜しい。蛙になるまで育てば、天敵として役立ったのに」という項目を付け加えていたんですが、こちらを選ぶ人が多いとは想像もしていませんでした。

 この差は何によるものかというと、たぶん“百姓の経験の差”だと思います。また、今の若い百姓は、田んぼに通ってお玉杓子と顔を合わせる経験が、私たち年配の百姓に比べると圧倒的に少ないんですね。

 現代では、かつてのように朝昼晩と田んぼに通うような情愛を持つことは、効率が悪いと言われるような風潮がありますから、田んぼに通い、生き物と顔を合わせる時間が激減しているんです。

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畦草刈りに精を出す宇根さん。これによって適度な撹乱が行われ、草花の種類が増えるという(写真/髙木あゆみ)

──なるほど、そうなんですね。

宇根 お玉杓子に何十年も「内からのまなざし」を注ぎ続けてきた百姓には、生き物への情愛が体の底に無意識のうちに蓄積されていて、生き物を殺すまいとする気持ちが強いんですね。そういう思いは、百姓の経験が長いか短いかに左右されるということが、このアンケートによってよく分かりました。

 私は、お玉杓子を全滅させた田んぼに入った時の感覚を今でもよく覚えていて、ほんとうに寂しいと感じました。それまで田んぼに入ると、足下で元気に泳ぎ回っていたお玉杓子が1匹もいない。「ああ、いつも一緒に田んぼで過ごしていたんだなあ」としみじみ思ったものです。

百姓は花の開花で季節を感じ取る

 
──「百姓は季節を花の開花で感じ取る」のだそうですね。

宇根 私がいま住んでいる村の里山には、樫や椎の常緑樹の森がありますが、そこに山桜が咲き出すと、「これから百姓仕事が忙しくなる」という合図になるんです。日本人の誰もが好きな桜ですが、桜は稲作ととても深い関係があるんですね。

 桜は、「サ(稲の神さま)」と「クラ(坐・座る場所)」に分けられ、「サ・クラ」は、「稲の神さまが座る場所」という意味になるんです。ずいぶん昔には、山桜が咲くと百姓は稲の神さまの到来だと感じ、その枝を切ってきて田んぼに立て、神さまを迎える祭りをしたそうで、これが花見の由来だと言われています。

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──桜の他に、春を告げるものは何かありますか。

宇根 種浸(たねつ)け花というのがそうですね。田んぼの畦に咲く白い目立たない花で、百姓がこう名付けたと言われています。

 いまは、春頃になると桶やタンクに種籾(たねもみ)を浸け、毎日水を替えて発芽を待ちますが、昔は、冷たい川や池の水に浸けて発芽するのを待っていました。

 実はこの種浸け花の開花の時期には幅があり、1月頃から咲き始めているのもあって、百姓は必ずしもこの花が開いたのを合図に、種籾を水に浸けていたわけではないんですが、川に種籾を浸けに行くときに、この花と出合った百姓が種浸け花と呼ぶようになったんです。

 花は季節を反映して咲きますが、それを百姓仕事に結びつける百姓の気持ちを、この種浸け花は端的に教えてくれていて、百姓にとってはとてもいい名前だなと思います。

畦草刈りをした方が草花の種類が増える

 
──ご著書にあった「畦の草は刈ったほうが草花の種類が増える」とは、どういうことなんでしょうか。

宇根 私は毎年6回畦草刈りをします。草を刈ると、背丈の高い草が切られて、それまで日陰になっていた低い草に日が当たるようになり、しばらくは低い草の勢いがよくなります。しかし日が経って背丈の高い草が勢いを取り戻して伸びてくるので、また草刈りをする。それを繰り返すことによって、結局、いろんな種類の草が生きられるわけです。

 生態学ではこれを「中規模撹乱仮説*3」といい、自然は放置するのではなく、適度な撹乱(適度なダメージ、ここでは草刈り)がある方が、いろいろな生き物が一緒に生きられるということもあるんです。
*3 生物群集における撹乱と生物の種多様性の関係を示した仮説

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──そうなんですか。意外ですね。

宇根 しかし私たち百姓は、草花の種類を増やすために草刈りをしているのではありません。あくまで毎日、田回りや他の仕事の時に畦道が歩きやすいように、また稲にとって日陰にならないように、風通しが悪くなって病気にならないように草刈りをするんですが、草を刈ることで結果的に草花が増えるんです。

 私の田んぼの畦には、約200種ほどの草花が生えていて、耕作を止めた田んぼを調べると3分の1以下の約60種あまりでした。畦草刈りをしなかったから、強い草花ばかりが残ってしまったんです。百姓仕事がされなくなった田んぼでは、生きものも減ってしまうんですね。

 これは、百姓仕事は必ずしも自然破壊ではなく、適切な百姓仕事は、生きものにとっていいことなんだということを示していると思います。

稲の手植えで味わったさまざまな楽しい思い

 
──ところで、田植えをするとき、手植えされていると聞きましたが。

宇根 昔は田植え機を使っていたんですが、あるとき機械が故障してしまったんですよ。そうすると、簡単に修理できませんから、パニックに陥るわけです(笑)。そのとき、子どもに「お父さん、昔やっていたように手で植えたら?」って言われて、「それもそうだな」と思って始めたんです。

 確かに機械に比べたら日数はかかるし、泥田に入り、腰をかがめて苗を植えるわけですからやっぱり疲れます。外から見ている人からすると、「単純作業で大変ですね」ということになるんですが、やっている本人はいろんなことを感じているんです。

「あっ、もう源五郎(げんごろう)が泳いでいるな」とか「この辺の土はちょっと硬めだ。耕し方がまずかったかな」とか、あるいは、時々風が吹いてきて、田んぼの水面がさあっと波立ったりすると、「ああ、きれいだな」などといろんなことを考える。そして、苗の感触を手で確かめながら、「頑張ってよく育てよ」という思いで植えていくのは、なんとも楽しいことなんです。

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──機械を使うと、そうした感覚を味わうことはできないんでしょうか。

宇根 そんなことはありません。ただ友だちから聞いた話ですが、その友だちの跡を継いで農業をしている息子が、ヘッドフォンをして、音楽を聴きながら田んぼでトラクターを運転していたので、そういうことはやめろと怒ったというんですね。

 ヘッドフォンをしていたのでは、機械のエンジンの調子がどうなのか分からないし、風の音も聞こえない。音楽に気を取られて周りの景色もろくに見ないだろうから、それじゃもったいないということなんです。

 ところがいまは、機械どころか無人のトラクターを開発しようとしたり、ドローンを飛ばして虫を調査して、害虫が多ければ、またドローンで農薬を撒くといったことをしています。また、田んぼに水を引くところにロボットを設置して、一定の水が溜まるようにコントロールするなど、「内からのまなざし」からかけ離れた農業を目指そうとしている。

 私は、あまり極端に機械に任せるような農業のあり方は間違っていると思っています。

アニミズムの感覚が見直されようとしている

 
──これからの農業に必要なことはなんだとお考えですか。

宇根 「アニミズム*4」という言葉があります。これは、すべてのものはアニマ(魂)を持っているという考え方で、文明の発達していない民族特有の、現代では通用しない時代遅れのものと言われていました。動物や植物はもちろん、石や水、土や道具、自然現象にも魂や心があり、人間と話をしたり、精神的な交流ができるとする考え方ですから。
*4 イギリスの人類学者、エドワード・バーネット・タイラーが提唱した、生物も無生物もアニマ(魂)を持っているという世界観

 ところが最近、このアニミズムが見直されてきているんですね。自然に対して、現代の主流である理知的、科学的な見方ではない、深い見方だとして再評価されています。それだけでなく、アニミズムは決して文明が遅れている状態なのではなく、現代人である私たちも身につけている、人間らしさの現れだと考えられているんです。

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──アニミズム的な感性が現代人にもあるということですね。

宇根 たとえば、きれいな花が咲いているのを見たら、「ラッキー」と叫んだり、蠅が顔の周りを飛び始めたら「あっちへ行け」と言って追い払ったりするのは、まるで生き物同士が会話しているような感じですよね。

 また、花を摘んで飾り、鉢植えの花を育てて楽しんだり、「元気で咲いているね」と声をかけたりすること、犬を飼って家族の一員のようにかわいがり、話しかけたりすること、これなどもアニミズムと言えばそうです。

 アニミズムというと、何か特別な感覚のように感じますが、それは「私たちは生きもの同士」という、日本人だけでなく、人間なら誰しもが持ち合わせている感覚です。百姓には、「稲の声が聞こえるようになれ」という教えがありますが、これだって、日本人が伝統的に持っている天地有情(てんちうじょう)の自然観から生まれたものなんです。

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人間が自然を好きになったのはアニミズムの感覚があったから

 
──アニミズムの感覚は、もともと人間にあるものなんですね。

宇根 約5万年前、死んだ人の墓に花を添える習慣が人類に生まれたと言われ、「あの人が好きだった花を供えよう」という気持ちはいまでも続いています。アニミズムがあるからこそ、私たちは虫や草だけでなく、雲や雨や、山や川の心を読もうとするんです。

「どうしてこんなに雨が降らないんだ。そろそろ降ってくれ」と本気で空を見上げて祈ったりして、まるで空に意志があるように相手をします。また、私たちが物語を生み出すのも、宗教までつくりあげて信仰するのも、アニミズムを備えているからなんだと思います。

 生きものに限らず、土や水や石や自然現象にも命が宿っているという感性がなかったら、日本人に限らず人間は自然を好きになったり、自然に惹かれたりすることはなかったでしょう。こうした感覚を大事にしていかなければならないと思っています。

聞き手/遠藤勝彦(本誌)