イラスト/ろぎふじえ

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 今月から数回にわたって、日本国憲法の成立事情を振り返ってみます。第1回は、日本国憲法が制定された理由です。

 日本国憲法が公布されたのは、1946(昭和21)年11月3日のことでした。その前年、8月14日に日本はポツダム宣言を受諾(じゅだく)し、連合国に降伏(こうふく)しました。約4年間に及んだ大東亜戦争が、ここに終結したのです。

 この敗戦は、日本社会にさまざまな変化をもたらしました。憲法問題もその一つです。それまで、日本では1889(明治22)年2月11日に公布された大日本帝国憲法(以下、明治憲法)が効力を保っていましたが、それを改正する必要が生じたのです。

 当初、日本政府は憲法改正の必要性を深刻には受け止めず、仮に改正が必要であるとしても、部分的手直しですむと考えていたようです*1。ところが、1945年10月4日、連合国最高司令官マッカーサーから東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の国務大臣で副総理格の近衛文麿(このえふみまろ)に対し、明治憲法改正の必要性について示唆(しさ)がありました。近衛の驚きは大変なもので、帰りの車中で「今日はえらいことを言われたね」とこぼしたと記録されています*2
*1=佐藤幸治著『日本国憲法論』成文堂、p.64
*2=古関彰一著『日本国憲法の誕生』岩波書店、p.17

 このような示唆については、日本が受諾したポツダム宣言に根拠がありました。ポツダム宣言とは、1945年7月26日、米英中の首脳が日本に対して降伏の条件を通告した全13カ条の宣言のことです。中では、「全日本国軍隊ノ無条件降伏」を要求した13項が有名ですが、憲法改正に関連する項目は、10項と12項の2つです*3
*3=芦部信喜著『憲法 第六版』岩波書店、pp.22-23

 まず、10項には「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙(しょうがい)ヲ除去スベシ 言論、宗教及思想ノ自由竝(ならび)ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とあります。この項目が、近代憲法の一般原理とされている基本的人権の尊重を求めていることは明らかでした*4
*4=同書、p.28

 次に、12項には「前記諸目的ガ達成セラレ且(かつ)日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国(れんごうこく)ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収(てっしゅう)セラルベシ」とあります。占領軍撤退の条件が述べられた項目ですが、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府」という言葉は、やはり近代憲法の一般原理である国民主権を要求しているものとされています*5
*5=同書、同頁

 ところが、明治憲法においては、ここに述べられた原理が不十分であるか、またはまったく異なる原理によって基礎づけられていました。まず、国民の人権はある程度保障されていましたが、それは法律によって制限できるようになっていました。また、主権は国民ではなく、天皇にあるとされていました。したがって、そもそもポツダム宣言を履行(りこう)するためには、明治憲法の改正は必要不可欠だったのです*6
*6=同書、p.23

 ポツダム宣言は、連合国と日本のどちらをも拘束(こうそく)する一種の休戦条約の性格を持つものと解されています。つまり、連合国側には日本がポツダム宣言を遵守(じゅんしゅ)することを求める権利があり、日本にはそれを履行する国際法上の義務があったのでした*7
*7=同書、pp.27-28

 さて、こうして日本政府は明治憲法改正に取り組むこととなりましたが、折しも、東久邇宮内閣は占領軍の民主化政策に対応できず総辞職。1945年10月9日、元外務大臣の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が新首相に就任しました。そして、その後の憲法改正の道のりも、決して平坦なものではなかったのです。(生長の家国際本部 国際運動部講師教育課)

参考文献 

  • 佐藤幸治著『日本国憲法論』(成文堂、2016年)
  • 古関彰一著『日本国憲法の誕生』(岩波書店、2015年)
  • 芦部信喜著『憲法 第六版』(岩波書店、2016年)

 

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