結婚当初、団地に住んでいた時に、ポストに生長の家の月刊誌が時々入っていて、良いことが書いてあるなあと、楽しみに読んでいました。次第にもっと読みたいと思い始め、直接、本を取り寄せるようになりました。すると『生命の實相』*1という本に興味が湧き、注文して読み始め、練成会*2にも参加して、それをきっかけに入信しました。

 子どもの頃の私は、口うるさく厳しい母のことが嫌いでした。祖父は普段は物静かで穏やかでしたが、お酒が入ると大声で母をなじり、母も言い返すので、聞きたくない、嫌だなあ、私はなんて不幸な子どもなんだろうと、悲しく暗い生活を送っていました。

 初めて練成会に参加した時のこと。浄心行*3で、父と母の笑顔を思い浮かべて、「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます」と繰り返し唱えていると、両親と過ごした様々なことが思い出されて、涙が出てきました。講話でも、命の根源である先祖や父母に感謝することが、幸福生活の根本であると学びました。

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イラスト/せのおりか

 その後、何度も浄心行を受け、用紙に両親への懺悔の言葉を書いていると、今、幸せに生きているのは父母のおかげと感謝の思いが湧きました。

 私も結婚し、仕事をしながら子どもを育てるようになると、若くして大家族に嫁いだ母は大変だったんだ、と母を思いやることができるようになりました。母は朝早く起きて畑を耕し、仕事から帰った後や休日には田んぼに出て、小さい体で働き通しました。しかし、66歳の時、脳梗塞で倒れました。実家で療養している母の顔を見に行くと、子どもたちが家で待っているんだから早く帰ってと、私を気づかってくれました。

 東日本大震災のとき、河口近くの土手の脇に建つ実家には、一階の天井まで津波が押し寄せました。しかし幸いに、母はその時デイサービスの施設に行っていて、津波の被害に遭わずに済みました。父と弟は実家の小屋の2階に逃れて無事でした。もし母が家にいる日だったら、足が不自由な母が外に避難するのも、2階に上がるのも大変だったと思います。

 震災後、海から離れた別な所に家を新築したところ、家の前の道路は避難用に広くなり、近くに避難塔も作られました。前に住んでいた所より便利だと父は喜んでいます。
 
 
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 歩行困難になった母は施設に入りました。施設の職員の方々は母のことを、「いつもニコニコ笑顔で癒される」と言い、私が「私が子どもの頃は、母はいつも怒って怖かった」と言うとびっくりされます。私や父が会いに行っても、母はニコニコ笑顔で父と会うのを楽しみにしていました。そんな母の姿を見て、私も嬉しくなりました。母は一昨年の5月に亡くなりましたが、感謝の思いと共に見送りました。

 会社勤めをしながら母と田んぼを耕していた父は93歳になり、長年の農作業で腰が曲がっていますが、家の周りの草をきれいに取り、以前住んでいた土地の草取りもしています。父の通院の送迎は私の担当で、車内と昼食時は小さい頃の話やニュース、天気の話題で楽しい時間を過ごしています。

「大調和の神示」*4には、「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」と説かれています。私はこの教えに導かれたおかげで、父母への感謝に目覚め、明るく楽しく幸せな人生を歩むことができました。

*1 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻
*2 合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*3 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行
*4 生長の家創始者・谷口雅春先生に下された言葉

S.F.(生長の家地方講師)
生長の家教職員会教区会長。夫は介護施設に入所し、今は1人で暮らす。自宅の桑の実を収穫したのを機に、家の植栽を整えようと、垣根の手入れを始めた。