父への不満が募って

 
 私は機織業を営む家に、3男2女、5人きょうだいの4番目、三男として生まれました。兄や姉は戦後の混乱期に厳しく育てられたようですが、年の離れた私と弟は、兄や姉から可愛がられ、甘やかされて育ちました。

 病気らしい病気をしたことがなく、中学、高校ではバレーボール部に入り、持ち前の俊敏さで活躍するようになりました。高校のときはエースアタッカーとして期待されましたが、そのとき初めて挫折を味わいました。

 というのは、私の身長は165センチで、相手のアタッカーは180センチ以上の人がほとんどだったため、まったく相手にならず、試合のたびに悔しい思いをしていたのです。

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 父も背が低いので、遺伝だとあきらめながらも、心のどこかに父を恨む気持ちを持っていました。身長のことだけでなく、父の母に対する態度にも不満を抱いていました。私には優しい父でしたが、母に対しては正反対で、日ごろから些細なことで母を叱責し、機を織る工場から大声で母を怒鳴る声が聞こえることがあったのです。

 私は母の味方で、母を一方的にいじめているとしか思えず、父への反感が募りました。そのため思春期になると、父との会話はほぼ途絶えてしまいました。

 6人兄弟の長女で、しっかり者の母は、10代の頃に父親が病死したため、母親の手伝いをして弟妹を育て上げました。その頃に叔母から生長の家のことを伝えられ、「無限の力を持っている神の子の人間に、乗り越えられない問題はない」という教えに感動し、青年会*1に入って伝道活動に奔走するようになり、父と結婚した後も白鳩会*2の一員として信仰に励んでいたのです。
*1 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織
*2 生長の家の女性の組織

 いま考えると、父のそうした態度に母が耐えられたのは、信仰があったからこそだと思います。

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「お父さん、ありがとうございます」

 
 私は高校を卒業すると、市内の洋品問屋に就職し、営業の仕事をするようになりました。上司から気に入られ、先輩ともすぐに打ち解けることができましたし、得意先の洋品店の人たちもいい人ばかりで、毎日が楽しく、何の不満もありませんでした。

 ところが4年ほど経ったとき、景気が低迷し、仕事がうまく進まなくなりました。「このまま会社にいていいのだろうか」という疑問が湧いて転職を考えるようになり、会社も休みがちになってしまったのです。

 そんな私を見かね、教化部*3の練成会*4への参加を勧めてくれたのが、母の影響で生長の家を信仰するようになっていた7歳年上の姉でした。大好きな姉の勧めだったので、23歳のときに練成会に参加しました。
*3 生長の家の布教・伝道の拠点
*4 合宿形式で教えを学び、実践するつどい

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 練成会で心を打たれたのは「浄心行」*5でした。恨みや憎しみなど、思いのたけを紙に書き連ねるのですが、私は父の悪口ばかりを書きました。ところが、聖経『甘露の法雨』*6を読誦する中でその紙を焼却し、「お父さん、ありがとうございます、お母さん、ありがとうございます」と何度も唱えていると、母はもちろん、反発していた父への感謝の気持ちが湧き起こってきたのです。
*5 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行
*6 生長の家のお経のひとつ。現在、品切れ中

「悪いのは自分だった、背が低いことまで父のせいにして本当にすまなかった」と懺悔し、「愛するわが子から無視され、どれほど辛かったことだろう」と父を思いやる気持ちになり、嗚咽が止まりませんでした。

 最終日の決意発表では、「帰宅したら父にお詫びします」と宣言しました。そして帰宅後、夕食を終えて父に向って正座し、改まっていざ言おうとすると、言葉が出てきません。我ながら情けなく思いましたが、しばらくして父から「お前の気持ちはよく分かった」と言われ、父への感謝の思いが深まりました。

 そんなこともあって、父の生長の家への見方が変わったのか、夫婦仲も良くなって、夫婦で生長の家の行事に参加するようになったのです。

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光り輝く黄金色の世界を見る

 
 その後、私は青年会に入って伝道活動に励むようになり、そこで出会った女性と28歳のときに結婚しました。妻は3姉妹の長女だったので、私は婿養子になり、妻の家族と同居するようになったのですが、困ったのは義父のことでした。

 丁稚奉公からたたき上げた染物職人の義父は、普段は温厚な人柄で、家庭菜園や日曜大工をするような人でしたが、並外れた大酒飲みだったのです。飲み始めると止まらず、暴れてはいつも家族を困らせていました。

 そんな義父を見て思ったのは、きっと寂しいのだということでした。それなら楽しい気持ちにしてあげようと思い、晩酌に付き合おうと決心しました。しかし、酒に弱い私には辛く、私が先に酩酊してしまう有様でした。ふと気がつくと、義父は大暴れして自転車でどこかに行ってしまったりして、家族で捜し回ったこともありました。

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 それでも私は、義父のお酒につきあい、朝と就寝前に必ず神想観*7を実修し、聖経『甘露の法雨』を読誦して、「神の子で素晴らしい義父の実相」*8を祈り、笑顔の義父を心に思い浮かべて讃嘆し感謝する毎日を送りました。また、休日には義父の仕事を手伝うようにしました。
*7 生長の家独得の座禅的瞑想法
*8 神によって創られたままの完全円満なすがた

 すると半年ほどして、義父の様子が変わってきました。酒量は同じでしたが、ともかく暴れたりしなくなったのです。

 それからさらに半年後、営業の仕事で車の運転をしていたとき、突然、目の前の光景が一変し、道路も電柱も草も木も、黄金色に光り輝くという経験をしました。あまりのことに驚いて運転ができなくなり、車を路肩に停め、改めてその光景を見ると、「これが神様が創られた実相の世界なんだ」と感動しました。

 不思議な光景は間もなく消え、再び仕事に戻りましたが、その後、帰宅すると、義父の様子がどこか違うことに気づきました。いつものように晩酌をしていたのですが、コップ1杯の酒を飲んだだけで顔が真っ赤になり、「おれはもう寝る」と言って床に就いて、さっと寝てしまったのです。

 それから義父は毎晩、1杯の酒で寝てしまうようになったため、わが家の夕食は、明るく楽しいものに一変しました。義父はその後、穏やかなおじいちゃんになり、80歳で亡くなりました。

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長男の脳腫瘍も乗り越えて

 
 私たち夫婦は、1男2女の子宝を授かりましたが、長男が1歳のときに脳腫瘍と診断され、2歳を過ぎて手術を余儀なくされるという困難に見舞われたこともありました。

 しかし、練成会などで生長の家の教えを徹底して学び直して長男の実相を祈り続け、多くの信徒の皆さんからも快癒を祈ってもらったおかげで、10時間にも及ぶ手術は無事成功しました。

 長男は後遺症から目が不自由になり、小学4年から高校までは視覚特別支援学校に通いましたが、今は身障者支援の会社で元気に働いています。生長の家が大好きで、家でも会社でも周囲を明るくする存在になってくれていて、本当に嬉しく感じています。

 これからも父母への感謝を深めながら信仰に励み、教えを支えに生きていこうと思っています。