18トリソミーの疑い

 
 私が結婚したのは、中学校の常勤講師として働いていた平成26年、41歳のときでした。翌年、長男が生まれ、令和元年には教員採用試験に合格して正規の教員となりました。そして、その翌年、2人目の子どもである女の子を授かりました。待望の第2子でしたので、私も妻も幸せな気持ちで張り切って毎日を過ごしていました。

 しかし、妊娠28週目の検診の時に、担当医から思いがけない事実を告げられました。「娘さんは、18トリソミー*1の疑いがある」と言われたのです。
*1 過剰な18番染色体によって引き起こされる病態で、発達の遅れや内臓の異常など、体にさまざまな症状が現れる

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 医師の説明によると、18トリソミーの子どもの多くは自然流産してしまうそうで、たとえ産まれたとしても1歳を迎えられる子どもは1割にも満たないそうです。もし、ある程度生きられたとしても、歩くことも、話すこともできません。食事も自力ではできません。栄養はチューブを通して与えることになります。

 18トリソミーの子は、そのような重度の障がいを抱えたまま生きていかなければならないとのことでした。しかし、現時点ではあくまで疑いであるため、羊水検査をして詳しく調べる必要がありました。

 私は生長の家を信仰する両親から「人間は本来、完全円満な神の子である」という教えを伝えられ、生長の家の青年会*2の一員として活動したこともありましたので、「これは何かの間違いに違いない」と思い、奇跡を信じて祈りました。しかし、検査の結果は、「18トリソミーで間違いない」という非情なものでした。
*2 12歳以上40歳未満の生長の家の青年男女の組織

 そのときの衝撃は、言葉で言い表すことはできません。妻は覚悟を決めていたのか、意外にも冷静に受け止めており、その点は、少し安心することができました。

 そこから、自分の子どもの死と向き合う日々が始まりました。産まれるかどうかもわからない、たとえ産まれたとしても、わずかしか生きられない我が子を思うと、泣けて泣けて仕方がありませんでした。しかし、エコー検査の写真を見ると、娘はとても可愛い顔をしていて、妻も私も「早く娘に会いたい」と切に思いました。

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授かったいのちを喜ぶ

 
 しかし、そんな思いとは別に、娘が短命であることを思えば、産まれてから亡くなるよりかは、お腹にいるときに亡くなるほうが、悲しみが少ないのではないかと思いました。また、一方で、娘が無事に産まれた場合、私たちは、そのケアをどうするかについても考えなければなりませんでした。

 もし、無事に産まれたとしても、延命処置を施すか否かの判断が迫られました。たとえ延命処置をしても長く生きられるケースは少なく、NICU(新生児特定集中治療室)に入ったまま亡くなる可能性もあるとのことでした。

 延命処置をせず、家で娘の面倒をみるとなると、人工呼吸器やチューブでの栄養補給などのケアが必要になります。妻と私が付きっきりでケアすることになれば、当然、そのしわ寄せは長男にも及びます。私たちは、究極の選択を迫られました。

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 延命処置などできなかったひと昔前であれば、こんな苦しい判断をする必要もなかったはずです。人の命を救うために進歩したはずの医療が、逆に人を苦しめているという矛盾を感じました。私には、娘に過度な医療行為をするのは、行き過ぎた行為のように思えました。妻も、延命のために子どもの小さい身体に管などを付けることに大きな抵抗を感じているようでした。

 私は、障がいを持つ子どもを授かる意味について考えました。生長の家で教えられているように、健常者であれ、障がい者であれ、神様から尊いいのちをいただいた、神の子であることに変わりはありません。私は、どんなことがあろうとも、娘と共に生きていこうと決めました。そして、妻と相談して、無理な延命処置はせず、家族みんなで同じ時間を過ごす道を選びました。

無事に産まれる

 
 多くの信徒の方々が娘のために祈ってくださり、聖経『甘露の法雨』*3の写経を送ってくださったりしました。私も聖経*4を読誦し、ご先祖様に、最も良き方向へとお導き賜りますことへの感謝を申し上げました。
*3 生長の家のお経のひとつ。現在、品切れ中
*4 生長の家のお経の総称

 当初は産まれるかどうかも危ぶまれた娘でしたが、皆さまの祈りのお陰か、無事に産まれることができました。泣き声は弱々しかったものの、かわいい顔をしていて、大きな障がいを抱えているようには見えませんでした。ただ、顎は少し小さく、人差し指が第二関節から内側に曲がっていて、確かに18トリソミーの特徴を備えていました。

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 医師からは、「自発呼吸をしていて比較的安定している」と言われ、シリンジ注入器でミルクを与えたところ、こくこくとよく飲んでくれました。そもそも18トリソミーでなくても、未熟児であれば自力ではミルクを飲めないそうで、医師も大変驚いていました。

 その後も、娘はミルクをよく飲み、無事に退院することができました。特に延命処置を取らないまま退院できたケースは、この病院では初めてらしく、医師も看護師もとても喜んでくれました。

神の子のいのちを見つめて

 
 退院して、自宅での介護が始まりました。私が娘と関わるのは、仕事から帰った後にミルクを与えるぐらいでしたが、妻は、一日中付きっきりで、さすがに疲労困憊していました。

 それでも、妻が娘を抱っこしながらミルクを与えている姿は、実に幸せそうでした。優しい笑顔を浮かべ、娘に目をやるその顔は慈愛に満ちていました。可愛い我が子と、そして、妻の幸せな姿を見ることが、私の幸せでした。しかし、その幸せな時間が失われることを恐れずにはいられませんでした。

 娘が生まれて28日目の正午近く、学校で授業をしていると、妻から携帯に着信がありました。折り返すと、娘が風邪を引いたようで、呼吸が怪しくなっているとのことでした。

 そして、午後3時半ごろ再び着信がありました。電話に出ると、妻が泣きながら、「もうだめかもしれない!」と叫んでいました。あわてて家に駆けつけると、私の母も来ていて、泣きじゃくる長男をなだめてくれていました。

 娘の首もとに指を当ててみましたが、脈は確認できませんでした。すぐに車に乗せて、出産した病院に向かいました。そして午後5時ごろ、生きてほしいという願いも虚しく、娘はあの世へと旅立ちました。

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 だんだんと温もりが失われていく我が子の亡骸を抱きかかえると、悲しみがこみ上げて涙が止まりませんでした。ただ、娘は特に苦しんだ様子はなく、その顔はまるで眠っているようで、実に穏やかでした。

 たった28日間という短い生涯でしたが、娘は、家族と過ごす穏やかな日々の幸せと、そして、いのちの尊さを教えてくれました。

 息子には、「お空に帰ったんだよ」と伝えました。たとえ、どんな人であろうとも、神様からいのちをいただいた尊い神の子である。私は、娘からその事実を教わりました。いつか、再会できるその日まで、娘の供養に努めながら、神のいのちの現れである、目の前のお一人お一人を大切に生きていきたいと思います。