不幸な家庭環境で育つ

 
 私の両親はともに障害者で、父は統合失調症に似た精神障害を持ち、母は網膜色素変性症を患(わずら)って、目が見えませんでした。

 そのような家庭に、一人っ子として生まれた私は、私の曾祖父の影響で生長の家を信仰するようになった叔母や叔父から、「お父さんだってつらいんだから、その気持ちを分かってあげてね」「あなたが、お母さんの目になってあげてね」と言われて育ちました。

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 叔母や叔父と同様、生長の家を信仰していた母からも、「生長の家では感謝することが大切と教えられている」と聞かされていました。

 子ども心に、「なぜ、自分がそんな感謝をしなければならないのか」と反発しながらも、自分の気持ちを抑えて、叔母や叔父、母から言われたように生きなければならないと思っていたのでした。

 学校から届く親宛の書類は、私が読んで母に聞かせていました。読めない漢字があって嫌になったりしましたが、それでも我慢し、母の目にならなければならないと必死に自分に言い聞かせていました。

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「今すぐ家を出て行け!」

 
 そんなある寒い冬の夜、私の人生を大きく変える出来事が起こりました。突然、父が「お前は俺の本当の子どもじゃない。今すぐ家を出て行け!」と怒鳴りちらし、畳をたたきながら小学生だった私を家の外に追い出したのです。恐怖に駆られた私は、寒さに震えながら何時間も外ですごしました。

 泣きながら何回も何回も、「助けてください」と心の中で叫び続けましたが、誰も助けてくれませんでした。そのとき、「これからは誰にも頼らず、自分一人で生きてやる」と強く思ったのです。

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 そんな頃に、叔母に勧められて生長の家の青少年練成会*1に参加したことがありました。そこでは、参加していた子どもたちが、「お父さん、ありがとうございます。お母さん、ありがとうございます」と声に出して唱えていましたが、そのときの私は、そうした言葉を聞くことすら気持ちが悪く、「そんなことを言えるのは恵まれているからだ」と思うばかりでした。
*1 合宿して教えを学び、実践するつどい

 そしてその後、父や母はもとより、叔父や叔母など、親類のすべての人たちが嫌いになりました。

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悲惨な最期を遂げた父

 
 そんな鬱屈した生活を送り、高校卒業後は地元の造船会社に就職しました。しかし、20歳になったとき、何もかもがいやになり、家を飛び出して、友人と一緒に東京に行きました。

 数年経った頃、初めて父から電話がありました。すると、父は怒鳴りながら「お前は俺の息子じゃないから、もう帰ってくるな」と繰り返し言うのです。

 はじめのうちは、優しく答えていたのですが、あまりにしつこいので、堪忍袋の緒が切れ、「帰るもんか!」と怒鳴り返したのが、父と交わした最後の言葉でした。それから1年も経たないうちに、父は亡くなったのです。

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 父の死を機に、母のためにと故郷に戻りました。以前勤めていた造船会社で再び働くことができるようになったある日、母から父の最期の様子を聞かされました。 

 精神のコントロールがきかなくなった父は、叔母の家で暴れて警察沙汰になり、手足を紐で縛られて病院に運ばれ、心不全で亡くなったというのです。父の遺体を見たとき、両手や両足にあざのような跡があったのを思い出したものの、父に同情するのではなく、「ざまを見ろ」と思う自分がいました。

「一緒に死んでくれる?」

 
 それから母と2人きりの生活が始まりました。しかし、何かにつけて私に頼ろうとする母にストレスが溜まり、母に当たり出すようになってしまいました。そんなある日、母から「一緒に死んでくれる?」と言われ、頭にきた私は、包丁を持ってきて、母の目の前の床に突き刺しました。

 何回かそんなことをくり返すうちに、このままではいつか本当に母を殺してしまうのではないかと、自分が怖くて堪らなくなりました。

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 どうすることもできないと思っていたとき、夢の中で「オーストラリアに行って、アボリジニに会ってこい!」という声が聞こえました。何かのお告げかもしれないと直感し、縋る思いでオーストラリアの先住民、アボリジニに会いに行きました。

 そのとき、ある長老から言われた「大切なのはとにかく生きることだ」という言葉が心に深く残りました。

「神想観をしたら必ず分かる」

 
 少し気持ちが楽になり、帰国後は母とは別々に暮らし始めました。月日が経ち、母から胃がんを患っていると聞かされたときは、「そうなんだ」と思うくらいでしたが、次の瞬間、何かに頭を叩かれ、目の前が真っ暗になるような衝撃を受けました。母に対して、そんな感情しか持てない自分は、なんて情けない人間なんだろうと思ったのです。

 そして、目が見えないながらも、常に私に何かをしてあげたいと思ってくれている母の姿が頭をよぎり、その場で何時間も泣きました。

 それから、曾祖父から伝わってきた生長の家を勉強してみたいという気持ちになりました。本で学んでいると、子どもの頃に参加した練成会に行ってみたいという思いが募り、生長の家の教化部*2を訪ねたのです。
*2 生長の家の布教・伝道の拠点

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 そのとき浄心行*3が行われていて、勧められるままに参加しました。こんなことで本当に救われるんだろうかと不安でしたが、父や母への恨みや心の中のモヤモヤした思いを紙に書き、聖経*4を読みながら焼却することで、少し心が晴れた気がしました。
*3 過去に抱いた悪感情や悪想念を紙に書き、生長の家のお経『甘露の法雨』の読誦の中でその紙を焼却し、心を浄める行
*4 生長の家のお経の総称

 その後、誌友会*5に参加したとき、講師が「神様の世界は完全円満」と話していました。なんのことか分からず質問すると、「頭で考えても分からない。神想観*6をしたら必ず分かるときがくる」と言われ、その言葉に触発されて神想観を実修するようになったのです。
*5 教えを学ぶつどい
*6 生長の家独得の座禅的瞑想法

 続けていたあるとき、「もしかしたら、昔の自分を救えるかもしれない」と思い、父から家を追い出されて寒さに震えていた場所に出かけてみました。佇んでいると自然に涙が溢れ、過去の自分を赦し、受け入れることができたのでした。

深い愛があることに気づく

 
 それから前向きな気持ちで神想観が実修できるようになり、完全円満な神の世界を少しずつ理解できるようになっていきました。しかし、それでもまだ父を赦すことはできませんでした。

 そんなあるとき、お墓参りに行く機会がありました。ふと思い立ってお酒を供えると、生前の父のことが思い出され、実弟から「死んでよかった」と言われた父はどんなにつらかったろうかと思い、止めどなく涙が溢れたのです。

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 嬉しくも悲しくもない不思議な涙でしたが、落ち着いて考えると、あれほど憎んでいた父を心配する愛が自分の中にあることに気づいた涙であり、本当の自分をやっと見つけることができた感動の涙だったと分かったのでした。それから、父に感謝できるようになっただけでなく、母にも感謝の思いで接することができるようになったのです。

 私は大嫌いだった生長の家から、そして父から大切なことを教わりました。これからも神想観に励んで信仰を深めながら、母に孝行し、一日一日を大切に生きていきたいと思っています。