立花信一さん│75歳│大分県日田市
33歳のときに腎臓病を患い、人工透析を余儀なくされた。その翌年、今度は愛する妻に先立たれ、辛い試練に心が折れそうになったが、生長の家の教えに触れて、どんな困難も乗り越えることができると分かって勇気が湧いた。そして、「人間・神の子、無限力」の教えを証明したいと、人工透析を受ける身でありながらトレーニングを重ね、日本百名山踏破を達成した。
ある日の夜、突然呼吸困難に
大分県日田市のJR日田駅からほど近い立花信一さん宅を訪ねると、Tシャツに短パンという、75歳とは思えない若々しい姿で出迎えてくれた。しかし、週3回の人工透析を受けていると聞き、さらに驚かされた。
立花さんは、こう振り返る。
「30歳のとき、大工の仕事をしていた私は、ある日の夜中、突然、呼吸困難に陥りました。救急車で病院に運ばれて、肺に水が溜まっていることが分かり、精密検査の結果、腎臓が30%しか機能していないと医師から告げられました。それが呼吸困難の原因だったんです」
腎臓の異常が分かるような自覚症状はなかったが、知らぬ間に病状が進行し、人工透析以外に助かる方法はないと診断されたのだ。

妻が早逝して目の前が真っ暗に
24歳のときに、1歳年下の文子さんと結婚していた立花さんは、人工透析を受けることになってから、体の負担を考えて大工の仕事を辞め、日常生活の困りごとを代行する便利屋を始めた。
「大工や電気工事の経験を生かせたので、多くの依頼がきて忙しい日々を送るようになったんですが、仕事を始めて1年経った頃、思いもかけなかった不幸に見舞われたんです」
その頃、体の不調を訴えていた文子さんが、病院で肺がんと診断され、すぐに入院となった。それだけでも大きなショックだったが、入院2日目の手術前の検査中に、くも膜下出血を発症し、33歳の若さで亡くなってしまったのだ。

「2度の流産を経験したにもかかわらず、私が人工透析になったときも励まして支えてくれた妻が、突然逝ってしまい、目の前が真っ暗になりました。どうして自分だけが、こんな辛い試練を与えられるのかと悩み、落ち込みました」
文子さんとの思い出が詰まったマイホームで暮らすことに耐えられず、先祖から受け継いでいた山にログハウスを建て、新たな生活を始めようと決意。悲しみを忘れるため、夢中で草木を切り、土を耕して山を切り拓くログハウス作りに没頭した。
「山の木を製材して材料にし、便利屋の仕事で回収した廃材なども利用しました。必要な重機や道具も知り合いから譲ってもらったので、お金はほとんど使わずにすみました」

立花さんが一人で建てたログハウスの母屋の前で。敷地内には、立花さんの趣味であるギターの練習室や野外ステージも備えられている
『生命の實相』との出合い
工事を始めたばかりの頃、ログハウスの雑誌を手に、文子さんの友人が訪ねてきた。参考になればと雑誌のページをめくると、日田市近くの九重町でログハウスを建てている、60代の夫婦を紹介した記事が目に留まった。
「遊びに行ったら、そのご夫婦が生長の家を熱心に信仰している方だったんです。人工透析をしていると話すと、『これを読んだらいい』と言って、『生命の實相』*第7巻を渡してくれました」
* 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻
夫婦の言葉を信じ、人工透析中のベッドの上で『生命の實相』を読んだ。そこには「人間は完全円満な神の子で、無限の力を持っている」「病気は迷った心が仮に現れているだけであって本来ない」「今起て!」といった力強い言葉が綴られていて心を打たれた。「救われるかもしれない」と思い、全巻を購入して貪るように読んだ。

「人生に絶望していた私に、『生命の實相』が生きる希望を与えてくれました」
「読み進むうちに、人工透析になってしまったことを悔やむのではなく、これを受け入れて生きようと、気持ちが前向きなものに変わったんです。そして気づくと、いつ死ぬか分からないという恐怖心も消えていました」
ログハウス作りは15年に及び、48歳になったときに、母屋をはじめ10棟が完成した。しかし、長年の疲れが出たのか、完成を機に燃え尽き症候群のような状態となり、漫然と日々を過ごすようになった。

そんなある日、何気なく見ていたテレビで、義足のアメリカ人男性がエベレストに登頂したことを知り、「自分も何かやりたい」という強い衝動に駆られた。
「その後、深田久弥(ふかだ・きゅうや)氏の『日本百名山』を紹介したテレビ番組にも刺激を受け、日本百名山を踏破しようと思い立ったんです。『人間は神の子で、無限力を持っている』という教えを証明したいと思ったことも、後押しになりました」
亡き妻が見守ってくれた
この頃、便利屋の仕事を辞め、2年あまり、近くの山に登るなどしてトレーニングを積み、平成13年4月、51歳を目前にして日本百名山踏破の挑戦がスタート。大分県の九重連山・中岳を皮切りに、6月には車で北海道へ渡り、羊蹄山や十勝岳、大雪山などの七峰を40日かけて制覇した。
「車で寝泊まりして、コンビニ弁当を食べる毎日でしたが、週3回の人工透析は、かかりつけの医師に紹介状を書いてもらい、行く先々の最寄りの病院で受けました」

「人工透析を受けている私が日本百名山を踏破したことで、同じ病を抱える人たちを少しでも勇気づけることができればと願っています」
その結果、5年がかりで百名山踏破を達成し、新聞やテレビでも大きく報じられた。5年間に全国40カ所の病院で145回、人工透析を受けたが、立ち会った医師からは、人工透析を受ける身であるにもかかわらず百名山踏破に挑戦したその勇気に、驚きの声が上がったという。
「生長の家の教えに触れ、『人間は神の子で、無限の力がある』と知ったからできたことですが、亡き妻が見守ってくれていたことも大きな力になったと感謝しています」





