紫谷英幸さん(しこく・ひでゆき)│63歳│熊本県天草市
取材/原口真吾(本誌)

春の陽気に誘われて、近くの海岸まで出掛けた紫谷英幸さんと妻のゆかりさん。普段からよく二人で散歩をしているという。「私は明るい色が似合うんですよ!」と語る英幸さん(写真/髙木あゆみ)

春の陽気に誘われて、近くの海岸まで出掛けた紫谷英幸さんと妻のゆかりさん。普段からよく二人で散歩をしているという。「私は明るい色が似合うんですよ!」と語る英幸さん(写真/髙木あゆみ)

突然、病を発症し、人生が一変

 
 紫谷英幸さんは、漁船の進水式の際に、大漁や海路の安全を願って掲げる「進水旗」(しんすいばた)や、小児誕生のときに健やかな成長と健康を願う「五月幟」(ごがつのぼり)、神社仏閣用の旗に加え、Tシャツやタオルなど多彩な染物を手掛ける紫谷染物店の三代目として生まれた。

 昭和7年創業という歴史ある店の跡継ぎとして、高校卒業後は京都の専門学校に進学し、経営と経理を学んだ。在学中の20歳のとき、同い年のゆかりさんと出会い、翌年に結婚。卒業後に紫谷染物店を継いだ。

 その後一男ニ女に恵まれ、店も地元で愛されて繁盛した。忙しく働きながらも健康そのものだった英幸さんが、くも膜下出血で倒れたのは、40歳になった10月のことだった。

inoti_rupo_3(左右いっぱい)

 ゆかりさんは、こう振り返る。

 「その日、夫は朝早くから作業場に立ち、まだ寝ていた私に早く来るよう急かしていましたが、私はわざとゆっくりしていたんです。早く仕事を終えてパチンコに行きたいだけだと分かっていましたから。そうしたらぱったりと声が途切れたので、あれっ? と思って見に行くと、夫が染料の入った水槽に頭から突っ込み、上半身が浮かんでいたんです」

 慌てて引き上げたものの気が動転し、近くの従兄弟宅に駆け込んで救急車を呼んでもらった。搬送先の天草市内の病院で、くも膜下出血と判明し、手術することになった。

 だがその前に、肺に入った染料水を除去する必要があり、1週間延期となった。その間、2度目の脳出血を起こし、「助かっても植物状態の可能性がある」と告げられた。

 「あの日、何度も私を呼んでいた夫に『せからしか!(うるさい)』と叫んでしまい、後悔で胸がいっぱいでした。手術の日は、集中治療室の前で必死に神様に祈りました」

「私がいま生きていられるのは、神様の愛と、ゆかりさんの支えのおかげ。だからこれまでの自分を反省して、すべてに感謝の心を持って生きていこうと思っています」(写真/髙木あゆみ)

「私がいま生きていられるのは、神様の愛と、ゆかりさんの支えのおかげ。だからこれまでの自分を反省して、すべてに感謝の心を持って生きていこうと思っています」(写真/髙木あゆみ)

信仰を支えに生きていこう

 
 幸い手術は成功し、一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。ゆかりさんは毎日のように病院に通い、その日の出来事を英幸さんに語りかけ続けた。

 その努力が実って、2カ月目には、指がわずかに動くようになり、3カ月目には、呼びかけに応じるようになった。やがて、目を開くまでに回復したものの意識は戻りきらず、意思疎通ができないまま熊本市のリハビリ病院に転院。日常生活のほぼ全てに介助が必要な状態となった。

 そんなある日、ゆかりさんは病院の待合室で『白鳩』*1誌を目にし、懐かしさから手に取った。
*1 本誌の姉妹誌

 「高校生の頃、伯母から生長の家を伝えられ、『生命の實相』*2を読んだことがあったんです。人間は神の子なんだと知って感動したことが思い出されて、生長の家に行けば救われると思い、自宅に近い天草道場を訪ねてみたんです」
*2 生長の家創始者・谷口雅春著、日本教文社刊。全40巻

 迎えてくれた女性に自身の苦しさを打ち明けると、涙が止まらなくなった。すると、「ご主人は今、肉体という入れ物が使えないだけ。神の子の無限力が働き、いずれ使えるようになるから大丈夫」と優しく励まされ、大きな救いを感じた。

自宅でもある紫谷染物店で、スクラップブックを開いて思い出話に花を咲かせる。店にはさまざまな染物のサンプルが所狭しと並び、最近は、五月幟を法被にリメイクする注文もあるという(写真/髙木あゆみ)

自宅でもある紫谷染物店で、スクラップブックを開いて思い出話に花を咲かせる。店にはさまざまな染物のサンプルが所狭しと並び、最近は、五月幟を法被にリメイクする注文もあるという(写真/髙木あゆみ)

 気を取り直して病院に行ったところ、一人では何もできなかった英幸さんが自ら歯磨きをしていて、ゆかりさんの顔を見るなり、満面の笑顔で「おう!」と声を掛けてきた。

 「そのとき、あの女性の言葉通りだったと思い、これからは生長の家の信仰を支えに生きていこうと心に決めたんです」

 その後、リハビリに努めたものの、英幸さんの四肢には麻痺が残り、短期記憶障害や認知障害も負った。今では、両手が動くまでに回復したが、歩行は難しく、車椅子での生活を余儀なくされている。それでも、英幸さんもゆかりさんも、決して悲観せず前を向く。

 「夫は、新しい記憶を持つことが難しく、倒れた40歳の時から、ほとんど時間が止まったままなんです。でも、生長の家のことだけは不思議と忘れないんですよね」

 とゆかりさんが語ると、英幸さんが続ける。

 「『人間は神の子である』という教えの話を聴くと、自分の中の神様が喜んでいるのを実感します。私が今生きていられるのも、神様の愛のおかげです」

商店街で車椅子をこぐ英幸さんに、ゆかりさんが後ろからそっと手を添える(写真/髙木あゆみ)

商店街で車椅子をこぐ英幸さんに、ゆかりさんが後ろからそっと手を添える(写真/髙木あゆみ)

朗らかに笑って「今」を生きる

 
 英幸さんが生長の家に熱心になったのは、ゆかりさんが、天草道場で行われる早朝神想観*3に英幸さんを連れていくようになってからだった。次第に英幸さんの方が積極的になっていった、とゆかりさんは笑う。
*3 生長の家独得の座禅的瞑想法

 「毎朝、4時半には家を出なければならないんですが、眠くてなかなか起きられないときがありました。そうしたら夫が、『あなたは神の子ですか、それとも物質を固めた肉体ですか』と聞いてくるんです。一度死に瀕してそこから生還した夫は、真理の言葉をあっという間に吸収して、どんどん心境を高めていきました」

「何か悩むことがあっても、夫は常に実相を観ていて、私にアドバイスしてくれます。それでいつも明るくいられます」(写真/髙木あゆみ)

「何か悩むことがあっても、夫は常に実相を観ていて、私にアドバイスしてくれます。それでいつも明るくいられます」(写真/髙木あゆみ)

 英幸さんは、新しい記憶を保持するのは難しい反面、過去にとらわれず、将来についても悩まず、常に朗らかに生きている。まさに生長の家が説く「今を生きる」を体現しているのだ。英幸さんは言う。

 「何事も、今、自分にできることを全力でやり、たとえできなくても絶対諦めたりしません。『神の子として本当に全力を出し切ったか?』と問いかけ、『まだまだ』と自分を奮い立たせています。それも妻あってこそなので、いつも支えてくれる妻には感謝しかありません」

inoti_rupo_6(左右いっぱい)

 その言葉通り、食事も歯磨きもトイレも自分でこなす。リハビリ開始時は要介護5だったが、今では要介護2となり、日常生活もほぼ自立可能なまでに回復した。

 ゆかりさんは、そんな英幸さんを見つめながら、ほのぼのとした口調で話す。

 「『介護は大変でしょう?』と聞かれることがありますが、シコベエさん(英幸さんの愛称)は、何にでも一所懸命だし、いつも笑って明るい話ばかりしてくれるので、全然ピンと来ないんですよ」

「私は神の子、毎日が幸せ」

 
 倒れてから2年ほど経った頃、ゆかりさんは英幸さんと共に、長崎県の生長の家総本山*4での団体参拝練成会*5に参加した。総本山では赤い大鳥居をくぐるたび「ただ今帰って参りました」「それでは行って参ります」と唱える慣習があり、夫婦でその言葉を口にした。
*4 長崎県西海市にある生長の家の施設。龍宮住吉本宮や練成道場などがある
*5 生長の家総本山に教区単位で参拝し、受ける練成会。練成会とは、合宿して教えを学び、実践するつどいのこと

 半年後、熊本県教化部*6を訪れ、龍宮住吉神社の分社を参拝した際、鳥居を前に英幸さんが『ただ今帰って参りました』と言い、帰り際にも『それでは行って参ります』と言った。新しいことは覚えられないはずの英幸さんがそう繰り返したのを聞いて、ゆかりさんは感動で震えたという。「この教えを学んでいれば間違いない、何も心配いらない」と確信した瞬間だった。
*6 生長の家の布教・伝道の拠点。

inoti_rupo_9(左右いっぱい)

 目を輝かせて語るゆかりさんの横で、英幸さんは澄みきった笑顔を見せる。

「毎朝、目が覚めたら神の子の新しい人生、ゆかりさんとの新しい生活が始まります。それだけであとは何もいりません。私は神の子で毎日が幸せです」