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植村 光(うえむら・ひかる)(55歳)/千葉市稲毛区
(撮影/堀 隆弘)

 6歳の時に弟が生まれ、その頃から父は私につらく当たるようになりました。家族で出かける時は私だけ祖母に預けられ、私以外の3人で出かけることもあったのです。

 私が小学校4年生の時に、両親は離婚し、母から「あんたがいるせいで離婚することになった。お父さんは、あんたの本当のお父さんじゃない」と言われました。その時初めて、母は私が2歳の時に離婚して私を引き取り、5歳の時に再婚したことを知りました。

 「本当のお父さんだよ」と言っていた母の言葉を信じていたのに、母が嘘をついていたということがすごくショックでした。

 それからは母と私と弟の3人での生活が始まり、母は早朝から夜中まで懸命に働いてくれました。そんな母の苦労を知っていたので、私は何かを買ってもらっても素直に喜べませんでした。

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『日時計日記』には、周囲への感謝の言葉を毎日書き続けている(撮影/堀 隆弘)

 一方、弟はそんな事情は露知らず素直に喜ぶので、「なんであんたは素直じゃないの」と母から言われました。他にもことあるごとに弟と比較され、絵を描くと「下手くそね」、服を着ると「センスがないのね」と言われて劣等感が増していきました。

 母は仕事が忙しく、弟の面倒は私が見ることになりました。でも父親がおらず、私が母親代わりでは無理があったのか、弟は中学生の頃には非行少年になってしまいました。

 そしてある日、オートバイを盗んだと警察から連絡がありました。母からは「あんたが面倒を見たから、こんな子になったんじゃないの」と冷たく言われ、私は、母の代わりに弟の世話をしてきたのにと思いました。

褒めて伸ばす子育て

 その後、28歳のときに、オートバイのツーリング仲間だった主人と結婚し、2年後に長女を出産しました。しかし、私が育てたら弟のように非行に走るようになるのではないかと思い、不安で仕方ありませんでした。

 そんな状況が変わるきっかけとなったのが、自宅のポストに入っていた一枚のチラシでした。母親教室(*)という集まりの案内で、「子育てのコツが学べます。お子さんを連れてぜひご参加ください」と書いてあり、軽い気持ちで参加しました。

 母親教室の講師に、子育てに自信がないことを相談すると、「子どもはみな神の子で、素晴らしい無限の可能性が宿っています。物事の明るい面だけを見て、子どもの美点を褒めて育てれば、みな与えられた天分を発揮します」と明るい言葉で励ましてくださったのです。

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撮影/堀 隆弘

 私にとっては、その言葉は衝撃的でした。私が母から受けた教育とは真逆だったからです。そして、私でも子育てができるかもしれないと、とても勇気づけられました。

 それからは毎月母親教室に通って、色々なことを学び、それを素直に実践していく生活が始まりました。「子どもが好きなこと、得意なことを褒めて伸ばしましょう」と教わったので、娘が4歳になる頃に料理に興味を示し始めると、野菜を切ってもらったり、フライパンで炒めてもらったりしました。

 そして料理が出来上がったら、「とても上手だね。手伝ってくれたおかげで助かったわ。ありがとう」と伝えるようにしました。

 すると、娘はどんどん料理が好きになり、高校で調理師免許を、専門学校では製菓衛生師免許を取得しました。

 専門学校卒業後は、パティシエになるという夢のために、カフェを出店する予定がある飲食業界の会社に就職しました。しかし、コロナ禍でカフェの出店計画が中止となり、娘は退職してしまいました。

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2014年から勤めている生長の家千葉県教化部で(撮影/堀 隆弘)

 私は母親教室で勧められた『日時計日記』(生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊)に、「娘に最高最善の就職先が決まりました」と、願いがすでに叶ったように毎日書き、明るい言葉もかけて応援しました。

 今もコロナ禍の中ではありますが、娘は希望の飲食店に就職することができました。

どんな時でも感謝を忘れず

 多額の借金を抱えた時も、『日時計日記』で乗り越えることができました。運送会社で働いていた主人が、平成14年に独立し、従業員を2人雇い、トラックを4台購入して新しい会社を始めましたが、排気ガス規制強化の影響で仕事が減ってしまい、平成15年に倒産。

 購入したトラック4台は、主人の兄が勤める運送会社に買い取ってもらい、主人もその会社に就職しましたが、借金が800万円も残ってしまったのです。

 それからは借金を返すために、主人は朝から夕方まで運送業、夜は酒屋で荷出しの仕事、私は宅配便の集荷センターで夜中から朝まで働き、その後に2時間ほどパチンコ店の清掃の仕事、家に戻ると家事や子育てに追われました。

 当時の睡眠時間は夜9時から11時までの2時間だけで、常に疲労困憊の状態でした。

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 そんなギリギリの生活を続けていると、「私が死んだら保険金で借金を返せるかもしれない、離婚して生活保護を受けた方が楽かもしれない」という考えがよぎる瞬間もありました。

 それでも、『日時計日記』に「植村〇〇さん、ありがとうございます」と書いて家族を1人ずつ讃嘆し、私自身には「わたしは私が大好きです。わたしは常に神様に守られ愛され、すべての人々のお役に立つすばらしい神の子です」と書き、その日の良かったこと、周囲への感謝の言葉を書き続けました。

 すると、死にたいという気持ちが消えていき、私を支えてくれている家族のためにも頑張ろうという気持ちが湧いてきたのです。それからは、どんなに辛い状況でも、必ず良くなると信じて頑張り続けました。

 そして、平成24年に借金を完済することができました。『日時計日記』を書き続けていれば、どんな問題も必ず乗り越えられると確信しました。

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母親との和解

 
 母との関係をより良好にしてくれたのも、『日時計日記』でした。母は50歳の時に脳出血で右半身麻痺になりました。

 医師から左手で文字を書く練習をした方がよいと言われ、「周りへの感謝や、その日あった良かったことを書くと、運命が好転するよ」と母に『日時計日記』を勧めました。

 後日、母が一人で住んでいるアパートを訪ねた際に、「四方八方万事好都合」と慣れない左手で一所懸命書いてある『日時計日記』を目にして、私が伝えたことを実践してくれてとてもうれしく思いました。

 昔、母から酷いことを言われ続けたせいで染み付いた劣等感は簡単には消えませんが、私も子育てを経験したことで、当時の母の苦労が理解できるようになり、母への感謝を忘れてはいけないと思えるようになりました。

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 また、『日時計日記』を書いていると、劣等感が消え、自分の長所も見られるようになってきました。書き続ける秘訣は、ページに通し番号を付けて励みにすることです。

 最初に30日、次は100日と目標を決めることをお勧めします。私は1日でも日記がつけられないと通し番号をリセットしますが、今は連続2千日を超えました。

 私の人生は困難の連続のように見えます。それを乗り越え、今の幸せがあるのは、この教えと出合い、物事の光明面を見る日時計主義の生き方が身に付いたからだと実感しています。

* 母親のための生長の家の勉強会

『日時計日記』2023年版 

『日時計日記』2023年版表紙画像

『日時計日記』は、その日一日の嬉しかった出来事や、ありがたかったこと、祝福や讃嘆の言葉、希望や願いを書いていく日記帳。毎日の明るいことを探し、それを書き留めていくことで、人生の明るい面に注目する習慣が身につき、幸せな人生が実現します。さらに、手書きをすることによって、ポジティブな思いがより強く心に残ります。

谷口純子・生長の家白鳩会総裁監修
生長の家刊
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