同じ宗教を信仰する男性と結婚したが、夫は職を転々とし、生活は苦しかった。
19年後に離婚、一時、夫に引き取られた4人の子どもたちも戻ってきた。
そんなある日、再婚相手と出会い、それが運命を好転させてくれるきっかけとなった。

『白鳩』No.157「体験手記」写真1

夫の保さんと(撮影/永谷正樹)

浦上真理子
72歳・広島市安佐南区

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 私は高知県で3人きょうだいの末っ子として生まれました。父は会社役員、母は服飾デザインの仕事をしていて、経済的に恵まれた家庭で育ち、高校卒業後は、母が通った東京の服飾専門学校に入学しました。そこでキリスト教系の宗教を信仰している同級生と出会い、入信を勧められました。

 その宗教に入会しようと思っていた時、叔母から生長の家宇治別格本山*1の練成会*2に参加することを勧められました。生長の家のことも、練成会のこともまったく分からないまま宇治別格本山へ行くと、大勢の方が参加していて、今でも覚えているのは、松葉杖で参加していた何人もの方の脚が治り、松葉杖を置いて帰ったことでした。
*1 京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*2 合宿形式で教えを学び、実践するつどい

 その後、富士河口湖練成道場*3の練成会にも参加し、「人間は神の子である」という講話を聴きましたが、今ひとつ心に響くものはなく、生長の家の教えは病気を治すためのもので、私が優秀な兄や姉に対して抱いていたコンプレックスを癒やしてはくれないと結論づけていました。
*3 山梨県南都留郡富士河口湖町にある生長の家の施設

『白鳩』No.157「体験手記」写真2

近所に住む長女と孫たち。皆、保さんが大好きだ(撮影/永谷正樹)

真理の種が芽吹く

 
 専門学校を卒業後、高知に戻って母の服飾デザインの仕事を手伝い、そのかたわら同級生から入信を勧められた宗教の教会に通いました。そして、その宗教の信者である男性と、28歳の時に結婚しました。

 結婚生活は山口県宇部市ではじまり、結婚の翌年に長男を、その1年後には次男を授かりました。その後、広島へ引っ越して三男と長女が生まれました。しかし、夫は仕事が長続きせず、建築現場の監督や書籍のセールスマンなどの職を転々としました。家計のやり繰りに困り、長男が保育園の年長になる頃には私も働きに出ました。

 こんな状況で4人の子育てをするのは本当に大変でした。そんな時、仕事で知り合った化粧品店のオーナーが生長の家の教えを信仰していて、その方が開く誌友会*4に誘われたのです。
*4 教えを学ぶつどい

 かつて練成会に参加したことをすっかり忘れていた私は、誌友会に参加するたびに「人間は神の子」という言葉をどこかで聞いたことがあると思いました。ある日、講師に「20年以上前に、宇治や河口湖で練成会をやっていませんでしたか?」と尋ねると、講師から「今もやってますよ」と言われて、ようやく記憶が蘇りました。今思えば21歳の時に叔母によって蒔かれた真理の種が、20年以上の時を経て芽が出ようとしていたのです。

 誌友会への参加を続けるうち、講師を自宅まで車でお送りする役目を買って出るようになりました。次第に車の中で夫を尊敬できないことや、子どもたちの兄弟喧嘩などの悩みを講師に打ち明けるようになり、仕事の付き合いで参加した誌友会でしたが、私にとって心の拠り所となっていきました。

『白鳩』No.157「体験手記」写真3

「信徒の皆さんがここに来て、喜んでいただけるのが何よりも嬉しいです」(私設の浦上道場にて)(撮影/永谷正樹)

血は繋がっていなくても

 
 その後も相変わらず夫の仕事は長続きせず、生活苦は続きました。もうこの人とは暮らしていけないと思うようになり、結婚して19年後の47歳の時に離婚したのです。しかし、夫は子どもたちが成人するまでは自分が育てると言い張り、子どもたちを引き取りました。その時、長男は高校3年、次男は高校2年、三男は中学3年、そして長女は小学校6年生でした。ところが、元夫と折り合いの悪かった長男と次男がまず家を飛び出して私のところに戻り、その後、三男と長女も私と一緒に暮らすようになりました。

 私は離婚する時、両親には「再婚します」と言っていました。そんな私に生長の家の講師は、「心に強く念じたことは現実となって現れてくるから、理想の再婚相手の条件を10個紙に書き出し、声を出して読み上げなさい」と指導して下さいました。そこで私は「男らしい人」「甲斐性のある人」「仕事が大好きな人」などと書き出し、毎日読み上げました。

 それから1年半が経った頃、本当にその条件にぴったりの再婚相手が現れたのです。

 当時私は水道工事会社で営業の仕事をしていましたが、ある日、営業所に戻ると、パンチパーマをかけた一見柄の悪そうな男性を見かけました。最初は会社はこんな人を雇っていていいのかと思ったほどでした。以来、この男性と毎日顔を合わせるようになり、話をするようになったのです。

『白鳩』No.157「体験手記」写真4

 彼は私の勤めていた会社の下請け業者で、故郷の熊本で水道工事業を営んでいたものの事業に失敗し、広島に来て再チャレンジしていたところでした。彼も結婚に失敗していて、子どもは別れた妻と暮らしていることも聞きました。

 話をしていると、心を癒やしてくれる心の温かい人だなと感じました。やがて交際が始まり、結婚を申し込まれました。私には4人の子どもがいることを打ち明けると、「自分は子どもが大好き。血より濃いものがある」と言いました。血は繋がっていなくても、親子の縁を大切にしたいというこの言葉が、私の背中を押してくれました。

 生長の家でも、継母(ままはは)は母という理念を接ぎ木のように繋いでくれる「継母(つぎはは)」だと説かれています。子どもたちにとって彼は「継父(つぎちち)」であり、父親の理念を繋いでくれるものだと思いました。最初、長男と次男は夫の籍に入ることを拒否しました。それでも分かってもらえる時が来ると信じて、平成12年に再婚しました。

 夫は子どもたちを本当の自分の子どものように愛してくれました。長男と次男が殴り合いのケンカをした時には、自ら体を張って止めてくれました。それからは長男と次男も夫と打ち解けて、1年遅れで籍に入ってくれました。

 長女はそんな父親の姿を見ていたからか、高校1年の時、「私もお父さんのような人と結婚したい」と言ってくれました。次男も「あの時、お父さんとお母さんが再婚してくれなかったら、僕たちはバラバラになっていた。ありがとう」と言います。子どもたちは皆、夫を慕い、本当の親子以上の信頼関係を築くことができました。

『白鳩』No.157「体験手記」写真5

夫婦で教えを学ぶよろこび

 
 再婚した頃、私は生長の家呉道場で開催されている練成会の運営委員をするようになっていて、何の気なしに夫を練成会に誘うと、一緒に来てくれました。夫は多くの人に歓迎され、特に鈴木孝臣講師(故人)は、満面の笑みで一本気な夫を褒め、とても深切に接して下さいました。

 夫は明るい心が幸福を呼び寄せる「心の法則」の講話が心に響いたようで、帰りの車の中で「生長の家の教えを学べば、俺も鈴木先生のような人になれるかな」と言いました。私が「絶対になれる」と断言すると、夫はその言葉に気を良くしたのか、毎月、練成会に参加するようになりました。

 すると、当時は月末を迎えるたびに会社の運転資金が足らないと愚痴をこぼしていた夫が、一切不平不満を言わなくなりました。それどころか、毎朝「今日も頑張るぞ!」と気合を入れて仕事に取り組むようになり、会社の業績はどんどん伸びていったのです。

 平成26年8月、私たちが暮らす広島市安佐南区は、豪雨災害に見舞われました。わが家も裏山の土砂崩れのため、半壊してしまいました。間一髪の所で家を飛び出し、難を逃れることができましたが、生長の家の信仰をしているのに、なぜこんな目に遭うのだろうかという思いが残りました。

『白鳩』No.157「体験手記」写真6

 当時、教化部長*5だった小田見行先生(故人)に相談すると、「それでも生きているではないですか! だから、あなたたちには教えを伝えていく使命があるんだよ」と教えられました。その言葉に胸のつかえがとれ、今生きていることを喜ぼうと思いました。そして、私たち夫婦で教えを学び、伝えていこうと決意を新たにしました。
*5 生長の家の各教区の責任者

 被災した翌年には、仕事で使っている倉庫の2階を、小田先生に「生長の家浦上道場」と名付けていただき、私設道場として生長の家の行事などのために地元の信徒さんに使っていただいています。そうして喜ばれることに嬉しさを感じています。

 最近、小田先生が生長の家の月刊誌に書かれたエッセイを読む機会があり、「『人間は神の子である』『すでに神様より全てのものが与えられている』と教えられ、ただ与えることで生きていける世界があることを知りました」という一節が目に留まりました。

 さらに、「多くの人の役に立つ夢は、内なる神の希望だから、それに向かって自分の個性を生かして努力しよう。自分の人生と他人の人生とを比較せず、財を築くことも名を上げようとする必要もなく、ただ自分の内なる神を、日々表現するために、生き急ぐことなく死に急ぐことなく、明るく生きて欲しい」と書かれていて、再婚するまでのつらい生活の中、何度も死にたいと思い詰めたことのあった私が、長い間求めていたのはこのことだったと心を揺さぶられました。多くの人のお役に立つことに喜びがあり、それが幸せであると、改めて実感しました。

 振り返れば、夫に影響されて私も教えを深く学ぶようになりました。夫との出会いは、神様からの最高のプレゼントだと思って感謝しています。ある時、夫に「よく私を拾ってくれたね」と言ったことがあります。すると夫は「お互い様だよ」と、照れくさそうに言いました。やっと今、幸せになれたと感じています。