夫が旅行先の温泉で心筋梗塞を発症して急死した。
妻として夫の死を未然に防ぐことができたのではないかと自責の念があったが、
自分が幸せに生きることが霊界の夫の喜びだと気づいた時、心に明るさを取り戻した。

『白鳩』No.153「体験手記」写真1

撮影/永谷正樹

末延晴子(すえのぶ・はるこ)
73歳・広島市西区

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 それは6年前の10月、主人が大学の同窓会で神戸市の有馬温泉に出掛けた日のことでした。自宅を出る時、主人は私に「これからはゆっくりしたらいいよ」と言いました。旅行の間は家事から離れてのんびりしなさいという、私へのねぎらいくらいに考えていたのですが、現地に着いてから電話を寄越してくれた時にも同じことを言われ、何度も繰り返さなくてもと気になりました。すると、その日の深夜に警察から電話がかかってきて、主人が亡くなったことを告げられたのです。

 宴会の後、温泉に入った主人は、湯船の中で意識を失っていたというのです。すぐに救急車で運ばれましたが、すでに息絶えていたといいます。まだ70歳で、死因は心筋梗塞でした。

 主人はそれまで大病をしたことはなく、元気に過ごしていました。唯一気がかりなのは長風呂が好きなことで、浸かりながら寝てしまうことがあり、私は主人が寝落ちしていないか、いつも風呂場の物音に耳を澄ましていました。しかし心配していたことが、私の目の届かない旅行先で起きてしまったのです。

『白鳩』No.153「体験手記」写真4

 私は夫に先立たれた現実を受け入れられず、声を発することができなくなり、目はかすんで一時的に物が見えない状態になっていました。葬儀では大勢の方から慰めの言葉を頂き、日頃お世話になっている生長の家地方講師(*1)の方から、生長の家のお経の一つ『顯淨土成佛經』(*2)を仏前で読誦して、供養することを勧められました。

子どもは親の心の鏡


 北九州市に生まれ育った私は、母から生長の家の教えを伝えられました。母は心臓弁膜症とリウマチの持病を抱えており、医師から長生きできないと言われていましたが、生長の家の「人間・神の子、病本来無し」の真理に救われ、94歳まで生きることができました。

 母は、「現象世界は自分の心がつくっているのだから、心を変えさえすればいいんだよ」と私や姉に教えを語り、弱音を吐くことはありませんでした。私は小学生の時から母に連れられて生長の家の講演会に行くようになり、神想観(*3)や先祖供養を熱心に行い、縁のある方に生長の家の月刊誌を手渡す母の姿を見て育ちました。

 その後、看護学校に進学して看護師の資格を取り、北九州市内の総合病院で働きました。28歳の時、大阪の商社に勤める主人と結婚して吹田市に移り、私は老人ホームで看護師として働きながら、一男一女に恵まれました。

『白鳩』No.153「体験手記」写真5

 生後3カ月の長男に湿疹ができた時、強い薬を使うのに抵抗感があった私はどう処置すべきか悩みました。親としての心構えを生長の家の観点からアドバイスを受けたいと思い、大阪教化部(*4)を訪ねました。すると、講師から「子どもは親の心の鏡であり、子どもの姿は親の心の現れです」と言われ、私は自分が責められているように感じて悲しくなり、その後、教化部へ足が向きませんでした。

 それでも、真理を学びたいという思いはあり、神想観をしたくて、信徒さんの自宅で行われている早朝神想観に通うようになりました。その後、母親教室(*5)や誌友会(*6)にも参加するようになったのです。

 集いの中で、明るい家庭を築くには夫婦調和が欠かせないことを学び、それまで仕事が多忙で家庭を顧みてくれない主人に不満を抱いていたことに気づいて反省しました。母が熱心に信仰してきたこの教えを、人生の指針としたいと決意し、白鳩(*7)会員にもなって夫婦調和を心がけていると、「子どもは親の心の鏡」の教えの通り、長男の症状は徐々に緩和されていったのでした。

 主人は生長の家に関心を持っていませんでしたが、結婚して10年が過ぎた頃、地元の相愛会(*8)の方から相愛会全国大会に誘われたのをきっかけに、相愛会員になり、私は夫婦で信仰できる幸せの中で過ごして来ました。

『白鳩』No.153「体験手記」写真3

生長の家白鳩会の仲間の猶崎由美子さんと(撮影/永谷正樹)

夫は苦のない極楽浄土へ


 主人の転勤で広島市に来たのは平成7年、私が46歳の時でした。その数年前、大阪で自宅マンションを購入したのですが、手放さざるを得なくなりました。すぐに売却できるか心配しましたが、ある講師から、「神様の世界ではすでに成就しているのですから、すでに受けたりと信じて、感謝して祈ればいいのですよ」と伝えられ、私は「良い人に良い時に求められて有難うございました」と紙に書いて部屋の壁に貼りました。その紙を見ては心で唱えていたところ、3週間ほど過ぎた頃に不動産業者から連絡があり、売却交渉がまとまったのでした。

 その後、成人した娘は生長の家本部の職員となり、息子は外資系企業に就職しました。主人は定年退職後も広島県内の関連企業で働き、生長の家の伝道活動はもとより、地元の自治会役員や大学の同窓会、県人会など様々な世話役を引き受け、精力的に過ごしていました。

 ただ、自分の使命を果たしたという充足感があったのか、「70歳になったら僕は逝くから、心配しなくていいよ」と言うことがありました。私は冗談だと思って聞き流していましたが、主人はその言葉の通りに70歳で亡くなってしまったのです。

『白鳩』No.153「体験手記」写真6

 同窓会に出かけた日、「これからはゆっくりしたらいいよ」と言ったのは、私へのお別れの言葉だったのかもしれないと今は思うのです。

 主人の亡き後、妻として守ることができなかったという思いはありましたが、娘は私の心中を察して、「お父さんは、大好きな温泉に浸かりながら、身を浄めて逝ったのよ」と励ましてくれました。信徒の友人は毎日電話をかけてきて、何気ないおしゃべりを通して気分転換を図ってくれました。私は家族や仲間の愛念に支えられて生きていることに感謝しながら、『顯淨土成佛經』を毎日手に取り、一字一句をかみしめるように唱えました。

 このお経には、苦のない楽ばかりに溢れた極楽浄土の世界が描かれています。主人は極楽浄土に生まれて楽しく暮らしているのだと思うと、心が慰められました。そして先祖は子孫が悲しむのを喜ばないように、主人は極楽浄土から私に向かって、明るく生きなさいと励ましてくれているような気がしたのです。

『白鳩』No.153「体験手記」写真2

仏前で聖経を誦げ、夫の博さんの供養を欠かさない。左下にあるのは博さんの遺影(撮影/永谷正樹)

 年月の経過とともに主人を亡くした寂しさもようやく薄れていきました。『日時計日記』(生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊)を書いてきたことも、前向きな心を取り戻すために役立ちました。その日の良かったことや誰かを讃嘆する言葉を記していると、心に暗い気持ちが入り込む隙がなくなるのが実感され、ここ2年間は一日も休むことなく書き続けています。

 主人の遺影は、生長の家の友人が、大先輩の講師の元に連れて行ってくれた時に撮った写真です。この時の主人の笑顔はすばらしく、この写真の前で主人やご先祖様を供養することが、日々の喜びとなっています。

「肉体は滅んでも生命は死なぬ。生命は永遠に生き通しである」という教えに、この6年間どれほど私は勇気づけられたことでしょう。その感謝の思いを胸に、多くの人に真理をお伝えしていきたいと思います。

*1 教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*2 生長の家のお経のひとつ。現在品切れ中
*3 生長の家独得の座禅的瞑想法
*4 生長の家の布教・伝道の拠点
*5 母親のための生長の家の勉強会
*6 教えを学ぶつどい
*7 生長の家の女性の組織
*8 生長の家の男性の組織