A 総司令部案をもとに、日本側から様々な修正が加えられて、日本国憲法となりました。

 本欄では4回にわたり、1946年2月4日から、GHQ(連合国総司令部)民政局で憲法草案が作られた背景に触れてきました。「象徴天皇制」「国民主権」「戦争の放棄」を柱とするGHQ草案が、吉田茂外相と松本烝治国務相らに示されたのは2月13日でした。

 2月8日にGHQへ提出されていた日本政府の改憲案への回答が得られるものと考えていた日本側は、明治憲法の基本的骨格を変えない改憲案を拒否され、「この総司令部案を受け入れるならば、天皇の地位は安泰となるだろう」「日本国民のために連合国が求めている自由が、国民に与えられることになる」などと伝えられ、呆然となったと記録されています。

日本国憲法は押し付けか

イラスト/石橋富士子

イラスト/石橋富士子

 日本国憲法は、このGHQ案をもとにして作られたため、「押し付けられた憲法」との批判があります。しかし、それはあまりに一面的な見方であり、GHQ草案がそのまま憲法になったわけではありません。最終的に現行憲法となるまでに、日本政府による様々な修正が加えられました。

 GHQ草案をもとに政府案が作られ、GHQと折衝が重ねられた末に、「憲法改正草案要綱」が3月6日に発表されます。4月10日には憲法改正も争点の一つにして、女性が初めて参政権を得た帝国議会(衆議院)の普通選挙が行われました。その後、4月16日に口語体の「憲法改正草案」が発表され、枢密院で審議された後、6月25日に帝国会議へ上程されます。

 そして衆議院、特別委員会、小委員会と相当な議論が交わされた後に変更が加えられ、貴族院でも修正が加えられています。同年5月に幣原内閣の後を引き継いだ吉田茂内閣で、議会での改憲論議の矢面に立った金森徳次郎国務大臣(憲法担当)の答弁回数は1300回以上に及び、いかに審議が尽くされたかがわかります(*)。

 その後、再び枢密院で承認を得た後、天皇の裁可を経て、日本国憲法は1946年11月3日に公布されました。

* 帝国議会での膨大な審議録は、インターネット上の「帝国議会会議録検索システム」で読むことができます