A 日本政府は、連合国総司令部から示唆を受け、憲法改正作業をはじめました。

 1945年8月14日、日本政府は、アメリカ・イギリス・中国(後に旧ソ連も参加)が日本に対して降伏の条件を定めた「ポツダム宣言」を受諾(じゅだく)しました。

 そこには、「軍国主義の除去」「戦争犯罪人の処罰」「基本的人権の尊重」などの条件が示され、12条には、「前記の諸目的が達成され、日本国民が自由に表明する意思に従い、平和的傾向をもち、かつ責任ある政府が樹立(じゅりつ)されたときには、連合国の占領軍は直(ただ)ちに日本より撤収(てっしゅう)する」(原文を現代語に意訳)と規定されていました。これは「国民主権」の採用を要求していると解されるものでした。

イラスト/石橋富士子

イラスト/石橋富士子

 そして、日本政府が同年9月2日に調印した降伏文書では、占領下において「天皇と日本政府は連合国最高司令官に従属する」とされ、ポツダム宣言の実施を大義名分とする連合国総司令部(GHQ)が占領政策を主導し、日本政府を通して国民を統治(とうち)する「間接統治」が行われます。そうした中、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーは、同年10月4日、当時、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の閣僚の一人だった近衛文麿(このえふみまろ)に対し、憲法改正の必要性について初めて言及(げんきゅう)しました。

日本政府による憲法改正案

 その後、憲法改正作業は、近衛が主導する改憲案作成と並行し、東久邇宮内閣が倒れた後の幣原(しではら)内閣が、同じくマッカーサーから示唆(しさ)を受けて設置した、松本烝治(まつもとじょうじ)国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」(松本委員会)でも始まります。同年12月、近衛が戦犯容疑者となり自害すると、松本委員会が主導権を握り、翌年2月にかけて討議を重ねますが、その改正草案は、明治憲法に多少の修正を加えたものでしかありませんでした。

 ところが、1946年2月1日、松本委員会による改正草案が『毎日新聞』にスクープされ、あまりの保守性に批判を浴びます。それ以上に、改正草案に対して危機感をもったマッカーサーは、GHQによる憲法草案づくりへと動きだすことになるのです。