K.Y.(49歳) 千葉市美浜区 撮影/遠藤昭彦

K.Y.(49歳) 千葉市美浜区
「私の観方が変わったとき、夫の愛情に気づくことができました」
撮影/遠藤昭彦

 私は大学を卒業後、証券会社の事務職に就き、同じ会社の営業部に勤めていた5歳年上の夫と、25歳の時に結婚しました。しかし、夫婦生活が始まると、交際しているときには見えなかった彼の一面が目に付くようになりました。

 夫は部屋の片付けをあまりせず、よく物を散らかしたままにしていました。私が見かねて口を出すと、返事はするのですが全く行動が直らず、よけいにイライラしました。それに趣味のギターは欲しいと思ったらすぐに買ってしまい、掃除中にローンの明細書が出て来てびっくりしたこともありました。

 夫は仕事の付き合いでよく飲み会があったのですが、事前に連絡をくれないのも不満の一つでした。せっかくご飯を作って待っていたのにと私が感情的になると、夫は黙ってどこかへ行ってしまうので、怒りのやり場がありませんでした。

 やがて29歳の時に長男が生まれ、私はちゃんと子育てができるか不安でたまらず、子どもから片時も目を離すことができませんでした。私が断りきれなくてママ友とランチに行ったとき、夫は長男の子守りを引き受けてくれたのですが、帰宅するとカーテンを閉めた真っ暗な部屋で、二人で昼寝をしていたことがありました。子どもが規則正しく生活するよう、夕方は昼寝をさせないでいた私の頑張りを否定されたように感じ、「こんな時間に寝かせたら、夜寝なくなるでしょ!」とつい怒ってしまいました。

 また、あるとき夫と長男が一緒に遊んでいたら、夫の爪が長男の顔に当たり、ケガを負わせたこともあって、夫は頼りにならないから私一人でこの子を育てるしかないと、ますます自分を追い詰めていきました。

子育ては夫婦調和から

 長男が4歳の時、私は幼稚園のママ友から、「悩んでいるみたいだからおいで」と子育ての勉強会に誘われました。参加してみると、それは生長の家の母親教室(*1)で、講師から「子育てには父親の存在も大切だから、母親一人で頑張ろうとするのではなく、夫と仲良くして家庭環境を整えなければいけない」と教えられました。

 その頃の私達夫婦はというと、離婚を考えるほど夫婦仲は冷え切っていました。会話もなく、夫と廊下ですれ違おうものなら思わず身をよけていたほどだったのです。出勤する夫を見送らず、帰ってきても、テレビを観ながら「おかえり」と言うくらいでした。

 当時の私は子どもをちゃんと育てたいという一心でしたから、子どものためなら夫とも仲良くしようと思いました。夫に対して当たり前のこともできていなかった自分を振り返り、とりあえず出勤の際の見送りと、帰宅時の玄関までのお出迎えから始めてみることにしました。朝は夫がマンションの玄関を出て見えなくなるまで、手を振って見送りました。形だけの見送りでも夫はとても喜んでくれて、何度も振り返っては手を振ってくれました。そんな姿を見ると、私もなんだか心にあたたかいものを感じました。

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 これまで幼稚園のママ友と子育ての不安や夫のグチを話すと、その時は少しすっきりした気分になったのですが、マイナスの話題で盛り上がった後は、いつも暗い気持ちになっていました。でも、母親教室では先輩のお母さんが「大丈夫よ!」と明るく言葉を返してくれるので、心が前向きになりました。そして、夫の洗濯物を抱きしめて、元気でいてくれることに「ありがとうございます」と言ってから洗濯するなど、母親教室で教えてもらったことは実践するようにしました。『日時計日記』(生長の家白鳩会総裁・谷口純子監修、生長の家刊)に娘さんの結婚成就を100日間書き続けたら、良縁が叶ったという体験談も聞いて、「私の夫は日本一、世界一、宇宙一。宇宙一の素晴らしい夫です。私はあなたと結婚して幸せです」と、教わった言葉を毎日綴りました。

 どれも最初はただ日課として行ったり、日記に綴るだけで、特にこれといった感情もありませんでした。それでも、続けているうちに不思議と行動に気持ちが伴ってきて、夫に対して感謝の気持ちが湧いてきたのです。

夫の愛情に気づく

 夫は思いを言葉に出さないタイプで、あまり反応がなく、私が体調を崩して寝ていても何も言わないので、私に興味がないのだと思っていた時期もありました。

 そんな夫でしたが、私に対してダメ出しをしたことがありませんでした。夫のワイシャツの胸ポケットに入っていた仕事のメモに気づかず、そのまま洗濯してしまったときも、ガッカリした様子でしたが「仕方ないな」のひと言だけで終わり、私を責めませんでした。何があっても私を否定せず受け入れてくれるのが、彼なりの愛情表現なのかもしれないと気づきました。

 あるとき私が車を運転していて、電柱で側面をこすってしまったことがありました。その車は、夫が子どもの頃から乗ることが夢だったという思い入れのある車で、慌てて夫に電話をすると、第一声は「ケガはない?」でした。何よりも私を大切に思ってくれている、彼のやさしさが心に染みました。

 子育てに関しても、私は育児書を何十冊読んでも安心できず、常に長男を見守っていないと不安で仕方がなかったのですが、生長の家で学んだ「子どもは神の子で、神の子は神様が育てて下さる」という真理が心の支えになりました。

 また、表情と声に出す言葉、心で思うことの3つを「コトバ」と呼び、コトバには物事を実現する力があると学びました。長男は体が弱く、年中風邪を引いていたのですが、それは「風邪を引いちゃうよ」と心配して声をかけ続けていた私のせいだったと気づき、それからは風邪を引くと言わないようにしました。すると、長男は皆勤賞を取りたいと言い出し、本当に卒園まで3年間休まず通い続けたのです。

 やがて長男が中学生になり、反抗期に入った時は、目の前の息子の姿にとらわれて深く悩みました。ですが夫は「大丈夫だよ」と、子どもを全面的に信じていました。夫は私よりも、もっと広い視野で物事を見ているのだと思い、私も「子どもは神の子」と思い直して、「必ず良くなる」と長男の神性を信じる心になりました。

信頼できる夫

 そんななかで、子育てには、やはり父親の役割がとても大切なのだと実感するようになりました。夫はわが子の成長を見届けたいという気持ちが強く、子どもの授業参観や合唱発表会などの行事にいつも出席してくれて、育児だけでなく家事も協力してくれていました。夫に任せると、長男がケガをしたりと事故が起こってしまうと思っていたのは、夫のことを信用していない私の心の反映だったのかもしれないと反省するようになりました。

 実は私が子育てに悩んでいたとき、夫は転職を繰り返していました。「次の会社はすごくいい所なんだ」と言うのですが、入社すると不満を言ってすぐに辞めてしまうので、その度に夫が信じられなくなっていたのです。わが家では夫が家計を管理していて、それも不満の種でした。夫の給料や貯金の額が分からないので、通帳を見せてほしいと詰め寄ったこともありますが、それでも見せてくれないので、夫の机の引き出しを探って、夫が無駄遣いしていないか調べたりもしました。しかし、それも振り返ってみれば、転職を繰り返してはいても無職の期間はなく、生活が困るということはなかったのです。

夫の出勤を笑顔でお見送り。「夫に任せていれば大丈夫と、今は心から思えます」

夫の出勤を笑顔でお見送り。「夫に任せていれば大丈夫と、今は心から思えます」

「この人に任せていては危ない」と心の中で夫を責めていたことを反省し、家族のために頑張ってくれる夫を、心から応援しようと思うようになりました。なかなか自分に合った職場が見つからない夫の、辛い気持ちに共感しながら話に耳を傾けるようになると、次の職場は10年間勤めました。ある年は営業成績が一番だった社員として表彰されたこともあり、夫の努力が報われたと本当に嬉しくなりました。その後、夫は「やりたいことが見つかった」と言ってコンサルティング会社を設立し、精力的に働いています。

 母親教室で気持ちをリセットし、生活の中の良かったことや嬉しかったことに心を振り向ける、生長の家の「日時計主義」(*2)の生き方が習慣になると、今まで見えていなかった夫の良さに気づくことができるようになりました。夫の家族への愛や存在の大きさを改めて実感し、この人だったら信じられると思えるようになっていったのです。

 今では「私たちって、よくしゃべるよね」と笑い合うくらい、夫とはずっと話しています。私はそんな日々に幸せを感じています。

*1 母親のための生長の家の勉強会
*2 日々の生活の中の喜びや感動、明るい出来事などに心を向ける生き方