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本来の明るさを取り戻した難波さん。現在は生長の家岡山県教化部に勤め、訪れる方々の心に寄り添いながら精力的に働いている。倉敷市の美観地区で(撮影/髙木あゆみ)

難波和彦(なんば・かずひこ)さん│56歳│岡山県倉敷市
取材/原口真吾(本誌)

将来への不安からパニック障害に


 ステレオなどの音響機器のカスタマイズが趣味だった難波和彦さんは、昭和58年に工業高校を卒業した後、一浪して大阪府にある大学の電気工学科に入った。だが、半年も経たないうちに大学から足が遠のいてしまった。

「なぜかは分かりませんが、何かに邪魔されているような感じで、まったくやる気が出なくなったんです。アパートに引きこもって機械いじりに没頭し、苦しい気持ちを紛らわせていました」

 その後、留年を二度繰り返し、将来への不安を抱えながら2年生のままでいた6月のある夜のこと。寝入り端に、突然、強い恐怖感と激しい動悸に襲われ、ベッドから飛び起きた。

「このまま寝たら死んでしまうのではないかと、うずくまって震えていました。しばらくすると、何事もなかったように治まったんですが、1週間ほどで同じ状態になり、次第に間隔が短くなって、ついに毎晩起きるようになったんです」

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 幸い大学が夏休み直前だったため、実家に帰省し、岡山の病院で診察を受けると「パニック障害」と診断され、薬を処方してもらった。薬を飲んで体調も回復し、夏休みの終わり頃に大阪に戻ろうとした。

「明るい気分で実家を出たんですが、途中、パニック発作が起きて、駅まで行けなかったです。それからは、実家からちょっと離れると発作を起こすようになりました」

大学を辞めて治療に専念する


 それからは、しばらく薬を飲んで家から出ない生活をしていたが、医師から「この病気は完治しない」と告げられた際、ふと思い浮かんだことがあった。

 高校時代、いじめに遭って不登校になりかけた時に、母親からお守りとして持たされていた『甘露の法雨』(*1)を開いて、ぱらぱらと読んでみた。

「その中の、『肉体と境遇とに様々の状態を顕せども(中略)想念を変うることによって/よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり』という言葉が目に留まって、相手を嫌っていた自分の想念が相手に反映して相手から嫌われ、いじめられるのかもしれないと思ったんです。不思議と相手に対して悪いやつだという思いがなくなりました。それ以来、本当にいじめがなくなったんです。その体験を思い出して、あの『甘露の法雨』を読み直して、生長の家の教えを学べば、この病も治せると思ったのでした」

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「聖経の拝読は生活の基本」と、読誦に励んでいる(撮影/髙木あゆみ)

 その後、大学を1年休学後に退学し、6年余り療養に専念する間、途中から『甘露の法雨』読誦を日課にし、「人間は完全円満な神の子である」という教えを心に沁み込ませた。

 その頃、趣味で始めた写真撮影のため外に出る習慣がつき、近所のバラ園で開催されたフォトコンテストでは入賞し、自己肯定感が芽生えた。

「次第に街への外出も数時間ならできるようになったんですが、普通の生活からはほど遠く、友人から結婚や出産の知らせなどが届くと、焦りが募りました」

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一番働き、動く研修生になろう


 そんな時、母親がお世話になっている地方講師(*2)から、生長の家宇治別格本山(*3)の練成会(*4)に参加して研修生となることを勧められた。意を決して平成6年11月に練成会に参加したが、動悸と気分の悪さから講話や行事にほとんど出席できなかった。

「それでも講師や職員の方、参加者の皆さんの何とも言えない明るい雰囲気に、ここでなら救われると感じたんです。また、精神に問題を抱えている同年代の参加者にも励まされ、翌月の練成会にも参加して、そのまま研修生になりました」

 講話を聴いたり、神想観(*5)を実修する行事には積極的に参加したものの、献労では、動悸が激しくなるため、できるだけ身体を動かすことは避けていた。そうして1ヵ月が過ぎた頃、「一体、何のために研修生になったのか」という思いが湧き上がった。

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「人間は肉体ではなく、神のいのちそのものなんだ。全力を出して、そのまま倒れて死んでも構わない。一番働き、動く研修生になろうと覚悟を決めたんです」

 すると、自分でも不思議なほど力が出て、動悸の苦しさもいつの間にか治まった。半年後には薬の量を半分に減らすことができたものの、安心のために服用を続けていた。10カ月ほど経った時、ある講師から「まだ薬を飲んでいるの?」と声をかけられ、薬を止めようと思い立った。

「思い切って薬を手放すと、初めは体調を崩すこともありましたが、次第に普通に生活することができるようになったんです」

人の役に立てる人生を歩みたい


 こうして1年が過ぎて研修生を卒業し、今度は奉仕員として、後輩研修生のお世話をする立場となった。その時、ふっとこれは親の役割に似ているのかもしれないと感じた。

「信じて見守るのはなんて大変なことなんだろうと思い、両親の心が理解できたような気がしたんです。先の見えない療養生活を送る私を支えてくれた父と母は、きっと自分よりも心を痛めていたんだと思うと、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」

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「身近な自然の美しさに目が向くようになって、写真も撮るようになりました」。愛用のカメラを手に(撮影/髙木あゆみ)

 宇治での生活を通して、悩みを抱えた人の役に立てるような人生を歩みたいと思うようになっていった。実家に帰宅後、生長の家への恩返しに奉仕したいとの思いで岡山県教化部(*6)で手伝いを始めると、教化部長(*7)から声をかけられ、平成18年に教化部職員となり、今に至っている。

「パニック障害に苦しみ、回り道をしたように思いましたが、人生に無駄なことは何一つないという教えの通り、両親への感謝や愛他の喜びなど、人生で大切なこと学ぶために必要な体験だったと感じています」

*1=生長の家のお経のひとつ。現在、品切れ中
*2=教えを居住地で伝えるボランティアの講師
*3=京都府宇治市にある生長の家の施設。宝蔵神社や練成道場などがある
*4=合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*5=生長の家独得の座禅的瞑想法
*6=生長の家の布教・伝道の拠点
*7=生長の家の各教区の責任者