『いのちの環』No.147「特集ルポ」写真1

墓前で手を合わせる寺田さん。「先祖のお陰で今があることを実感し、日々感謝の思いを捧げています」

寺田真吾(てらだ・しんご)さん│51歳│愛知県豊橋市
取材/原口真吾(本誌) 写真/永谷正樹

先祖供養に目覚めて

 寺田真吾さんが生長の家の教えに触れたのは、平成20年、37歳のときのこと。母親の京子さんを、生長の家富士河口湖練成道場(*1)の練成会(*2)に連れて行ってあげたのがきっかけだった。

「母は熱心に生長の家を信仰していましたが、私は特に関心がありませんでした。ただ、そのときは他に予定もなかったので、ちょっとのぞいてみようと思ったんです」

 初めて参加した練成会で、講話を聴いても特に心に響かなかったが、その中で不思議と心に残ったのが、「幸福な人生を実現するには先祖供養が大切」という話だった。

 お盆のときに墓参りをするくらいで、普段は先祖供養をしていなかった寺田さんは、練成会から帰宅すると、京子さんに教えてもらい、寺田家と妻の実家のご先祖の名前を霊牌(*3)に書き、富士河口湖練成道場に送って供養してもらった。

「すると、何となく良いことをしたような嬉しい気持ちになって、それから月に一度、霊牌を書いて先祖供養をしてもらうようになったんです」

 しばらくして、京子さんから勧められ、誌友会(*4)にも参加するようになった。仕事と重なって参加できないことも多かったが、教えを学ぶうちに、先祖供養こそが人生の大切な基盤なのかもしれないと感じるようになった。

「自分のいのちのもとである神様、ご先祖様を敬うことが、幸せな人生を実現することにつながるんだということが、何となく分かるようになったんです」

『いのちの環』No.147「特集ルポ」写真2

実家の畑で母親の京子さんと

尊い使命を持って生まれた子ども

 先祖供養を続けるうちに、ふと頭をよぎったことがあった。

 寺田さんには、平成8年と12年に誕生した長男と次男がいたが、日常生活に支障はないものの、軽度の知的障害があった。それでも、京子さんから「子どもは神様が育てて下さるから大丈夫」と励まされ、「神様は善一元だから悪いことは起こらない」という生長の家の教えを支えに愛情をかけて育てていた。だが、時折、同年代の子どもたちの輪に入っていけない息子たちの姿を見ると、胸を締めつけられるような悲しい思いをしていた。

 あるとき、ふと息子たちのことでそうした悩みを抱えてしまうのは、結婚を機に家を出て両親と疎遠になり、両親に感謝していなかったからではないかと反省する気持ちが生まれた。

「私は23歳で結婚することになったとき、家業の農業を手伝いながら両親と一緒に暮らすつもりだったんですが、妻が嫌がったんです。結局、私は運送業の会社に転職して、妻の実家がある豊橋市で暮らすことになり、両親に寂しい思いをさせてしまいました。その後も、妻は私の両親と疎遠だったので、もっと仲良くしておけばよかったと思ったんです」

 それから先祖供養をするときは、両親と家族が仲良く過ごしている姿を思い浮かべ、両親に感謝の気持ちを込めて行うように努めた。すると、息子たちへの見方が変わった。

「高級霊は、魂の成長のために困難と思える境遇を自ら選んで生まれて来ると学んで、本当に心が安らいだんです。そして、いのちの源である神様とご先祖様、両親にもっと感謝しようと思い、聖経(*5)を誦げて、一層、熱心に先祖供養をするようになりました」

 息子たちはそれぞれ尊い使命があって生まれてきたという思いが深まり、他の子と比べて悲しむこともなくなった。寺田さん夫妻の愛情を受けて、長男と次男は、特別支援学級に通いながら、平成15年に誕生した長女と仲良く、すくすくと成長していった。

「長男が中学3年生になったとき、近隣に特別支援の高校がなかったため、進路をどうするか悩みました。でも、親が子どもの力を限定してはいけないと思い直し、子どもの意志を尊重して受験にチャレンジさせると、長男に続いて次男も普通の高校に進学することができたんです」

『いのちの環』No.147「特集ルポ」写真3

父親の喜六さんと。家族一丸となって、先祖から受け継がれた土地と家業を守っている

 2人は高校を卒業後、自動車教習所に通い、寺田さんの心配をよそに、揃って免許を取得した。
「障害がある子どもでも運転免許が取れたことが、嬉しくてたまりませんでした。その姿を見て、『人間は無限の力を持っている』という生長の家の教えを実感しました」
 その後、長男は老人ホーム、次男は自動車部品メーカーに就職が決まり、それぞれの個性を生かして元気に働いている。

「子育てをすることで、親の気持ちが分かり、両親に対して心から感謝の気持ちが湧きました。そして、親としての経験をさせてくれた子どもたちにも、ありがたいという思いでいっぱいになりました」

ご先祖供養に導かれ

 平成22年、妻の母親が亡くなったことを機に、妻と寺田さんの両親との距離も縮まった。葬儀の段取りについて、寺田さんの両親が優しくアドバイスしてくれたため、妻の態度が少しずつ柔らかくなっていったのだ。

 そんな令和3年2月、長年農業をしてきた父親の喜六さんが腰を痛め、農作業ができなくなってしまった。連絡を受けた寺田さんは、会社に頼んで夕方からの勤務にしてもらい、日中、実家に戻って農作業をし、夕方に取って返して仕事をするという二重生活を2カ月ほど続けた。

「父親は先祖代々からの土地を手放したくないというので、妻の了解を得た上で会社を辞め、豊橋市の自宅から、田原市の実家に通うようになったんです。父は無口な人で、それまではほとんど話をしなかったんですが、一緒に農業をすることで少しずつ会話も増えて、農業に懸ける父の思いがよく分かるようになりました」

『いのちの環』No.147「特集ルポ」写真4

「まだまだ学ぶことが多くあります」。収穫したキャベツを手に

 農業は、自然に合わせて臨機応変な対応が求められるため神経を使う。実際に農業に携わることで喜六さんの苦労が分かり、尊敬の念も生まれた。妻も農業の手伝いをしてくれるまでになり、「これも先祖供養を続けてきたお陰です」と、寺田さんは顔をほころばせる。

 寺田さんは朝、実家に行くと、「ご先祖様、今日もよろしくお願いします」と仏壇に手を合わせ、帰る前にも「ご先祖様、一日ありがとうございました」と手を合わせる。

「最初は、母に勧められてなんとなく練成会に参加し、良いことがあるみたいだからと始めた先祖供養でしたが、その“なんとなく”こそが、ご先祖様の導きだったと感じています。先祖供養を続けることで家族の心が一つになり、ご先祖様のお陰で今があるという思いが深まりました。これからも先祖供養に励んで幸せに暮らしていきたいと思います」

*1=山梨県南都留郡富士河口湖町にある生長の家の施設
*2=合宿形式で教えを学び、実践するつどい
*3=先祖及び物故した親族・縁族の俗名を浄書し、御霊を祀る短冊状の用紙
*4=教えを学ぶつどい
*5=生長の家のお経の総称